煉獄の行進








 2

 完全な暗闇ではないが、靄のかかったような──正確には痛みその他のせいで、かすみきった意識の中、……
 「頼むよ、パルランド」遠くから聞こえてくる、片方の声はひどく穏やかで抑揚の緩やかなものだった。「植物や動物とは違って、”至上神の子ら”は癒すことはできても、わたしには命を拾うことはできないのだ。なんとか助けてやれないものかい」
 「お前は自分で助けられもしないものを拾ってくるのか、アイウェンディルよ」もう片方の声は強い抑揚もあるが、全体に深く静かに、あたかも深淵の底から響くような声だった。「いや、お前の動物たちによく言い聞かせておけ、そして──」
 「もう一度捨てて来い、などというのではないだろうね?」最初の方の穏やかな声が言った。「それはない、それはないよ。なんとか頼むよ。できないこともないのだろう?」
 「お前はお人よしすぎる」深い方の声が苦々しげに言った。「拾ってくることもそうだが……わしの所などに連れてくることもそうだ。計算してのことでないならば──お人よしにも限度というものがある。とても、つきあってはいられんぞ──」
 だが、それらの声も遠くのことのようで、続く言葉はさらに遠ざかりながら、カイトの意識はふたたび薄暮の中へと落ちてゆき、……


 ……またどれだけの間を経たか、その薄暮に光が瞬くように、歌声が聞こえてくるのがわかった。幼い子供の声だが、起伏の少ない韻律のきめの揃った歌声は(この響きが神代の上のエルフ語であるとわかったのは、ずっと後になってからのことである)長い間忘れていた、とうとうと流れる水や、柔らかい陽射しを思い出させ、……
 ときたま、さらさらという衣擦れの音や、ぱたぱたと小股に歩く雑音が入ったような気がしたが、その生活音からは言い知れぬ落ち着きが、……しかし、それも、引き続くカイトの昏睡に落ちる中に、遠くから入るばかりで、──


 ──カイトをまどろみから急に引き上げたのは、額に布が当てられたひやりとした感触だった。それと共に、やや刺激臭にも近いが心地よい薬草の芳香が、意識を強く覚醒させた。
 カイトははっきりと身じろぎし、目を開いた。
 幼いと形容できる、小さな顔が覗き込んでいた。布を持った手をカイトの額からそっと離しながらも、横たわるカイトをじっと見つめていた。それは、短いくすんだような赤毛の少女で、大きく澄んだはしばみ色の瞳を、驚愕か、あるいは当惑かで、はたと見開いたままだった。
 カイトは少女に呼びかけようとしたが、……口を開いても、かすれた声、言語になっていない声を発することしかできなかった。
 が、少女は不意に慌てたように身を離した。纏った青い短衣の裾が翻り、ぱたぱたと足音としては異様なほど軽い音と共に、少女の姿はさっと戸口に見えなくなってしまった。
 カイトは身じろぎした。何となく全身がけだるく、体はうまく動かないが、不思議と、あの尋問の際に受けたひどい痛みなどはほとんど残っていないように思えた。もっとも、麻痺しているか何かかもしれない。だが、やがて、上体だけはなんとか起こすことができた。木の小屋の中──木の寝床の上──縛められてはいない──自分が悪夢のどん底にいるのではない──少なくとも当面──少しは前から、薄々とそんな気がしていたような気がする。だが力のぬけたような心身の状態からも、容易くは実感に繋がらなかった。
 頭を整理しようとする前に、入り口からふたたび軽い足音がした。現れたのは一見、さきの少女かと思ったが、カイトにもわかるほど、足取りがつかつかと落ち着いている。と、続いて、風貌から服装から、まったく瓜二つの姿をした幼い少女が、その背後から顔を出した。不安の面持ちからも、こちらがさきにカイトを目覚めさせた少女に違いもない。
 手前の少女が、警戒するようなしぐさを見せて、カイトの寝床の数歩前で立ち止まり、ついで、見回すようにその傍らをゆっくりと歩いた。
 「お姉ちゃ……」背後で立ち止まったままの、不安げな方の少女が言った。
 「パラニアを呼んできて、マリア」手前の少女はカイトの方を見つめながら、ほとんど顔を動かさずに言った。
 再び、ぱたぱたという足音。カイトの傍らにひとり残った”姉”の方の少女は、驚くほど線の整った眉根を、ひたすら険しくしてカイトを凝視した。あからさまな警戒と、値踏みしている様子があった。その表情のあまりの厳しさに、何か尋ねようと思っていたカイトは、声を発する気も萎んでしまっていた。
 「もう喋れるんでしょう?」が、少女はやがて、沈黙に苛立ったように口を切った。「何か聞くことはないの?」
 目覚めたばかり、前後不覚も同然、口を動かすのもようやくのカイトより、少女の方が進んで語り教えてくれてもよい状況である。(それほどまでに少女の警戒が強く、自分から語ろうとしないというまでは、カイトは思い至らなかった。)ともあれ、その少女のきつい尋問口調は、あのオーガの詰問を思い出させて、カイトの意識をよろめかせた。
 「ここは、どこだ……」が、カイトは何とか問いを発した。
 「雑貨店の裏。”辺境の地”の街の」少女は簡潔に答えた。
 「オレは……」
 「死に掛けてたところを、『茶の賢者』がこの街に連れてきて、パラニアが手当てしたの。わかった?」
 わかりすぎた。物足りないとすら言えた。それぞれ誰のことであるとか、細かいことまでわかるわけではないが、今のカイトの頭の働きで理解できる範囲の情報としては、充分すぎた。
 「どこか痛みはない?」滞りもなく少女は問いを継いだ。
 「ああ……」カイトは口ごもって、とりあえず答えた。「特に……ない」
 少女は腕を組み、意識を取り戻したばかりという点を差し引いても間の抜けた声を発するカイトを、また値踏みの意図も露に見下ろした。
 少女の今の声には全く労いという色がなく、本当に必要があることを聞いているという態度を隠そうともしていなかった。そのあまりの応対の割り切りは、この少女の見かけの幼さを、ほとんど逸しているようにすら見えた。ふと、眠っている間に聞こえてきたあの歌声と、同じ声色ではないかという点に思い至ったが、あまりにも印象が違うので、確信はもてない。
 が、考えている間に、また扉が開いた。……重く広い足取りで入ってきたのは、少女らと同じ色の服装、すなわち、ほとんど黒と言ってもよいほど深い藍色の長衣に、同じ色の頭巾つきの外套を羽織った人物だった。
 たくましい長身の老人だった。真っ直ぐに伸びた上背は、6フィート半以上はあるだろう。青い長衣と外套はゆったりと長いが、その上からでも頑丈な肩幅と背のつくりは明らかに伺えた。短く刈り込んだ髪と鬚には、黒の中に霜を置いたように銀が混ざっている。目は青く、重さや厳しさよりも、”鋭さ”を感じさせるものがある。それらを含めて、どれほどの齢であるかは計り難く、物腰はひどく精悍で、枯れたようなところを感じさせなかった。
 「目は覚めたかもしれんが」
 老人はカイトを見下ろして言った。
 「起きて動けるようになるには、まだ何日かかかる。それまでは、そこに寝ているがいい」
 夢の中で話していた二つの老人の声のうち、”パラニア”と呼ばれていた、深い声の方だった。ということは、あれは枕元での会話であったのだろうか。
 「す……」カイトは口ごもり、言葉を捜したが、結局最初に発しかけた語を言う事しかできなかった。「……済まない」
 「礼はまだいい」が、老人はカイトの言葉を受け止めはしなかった。「自分が何から救われたのか、どう救われたのか、わかってはいまい。わからないうちから礼を言うべきではないし、今は、説明してもわかるまい」
 穏やかではあるが、突き放したような言葉と口調だった。
 「だが今は、ここ数日、介抱していたこの娘達の方に礼を言うべきだな」
 傍らにいた少女は、老人の視線に、相変わらずやや不機嫌そうに、小さく息をついて腕を組んだままだった。老人の背後に隠れるようについてきていた最初の方の少女、妹の方が顔を出し、不安げに老人と、カイトを見比べていた。
 ──自分は、おそらく死の淵より深い闇から引き上げられたのだ。改めてそう思っても、カイトには実感が沸かなかった。あの体験は、実際に闇の底にある時にそうしてきたように、何かの間違いに過ぎない、ただの悪夢であると信じ込もうとしていた。助かった今となっては、忘れ去ろうとしていた。老人の言うとおり、どれほど救われたか認識することも、だが追求する気も沸かず、カイト自身にとっては、それが幸いだと感じられたのだった。


 それから数日の間、カイトはその雑貨店の裏で過ごした。外傷や痛みはすっかりなくなっていたが、牢の幽閉で衰弱した体力が中々戻らなかった。
 老人は時々しか現れず、もっぱら双子の少女が現れて、ほとんど動けないカイトに食べ物(果実がほとんどだった)や、さまざまな芳香をする薬草を持ってきて、しばしばそれで煎じ薬などを作っている姿も見られた。双子のうち、妹のマリアは、カイトが目覚めてからは、彼を恐れているというわけでもないだろうが、常に不安げに必ず姉のアリスの背後についてしか行動せず、一方で姉の方は、明らかにカイトへの不信感を露にし常にぶっきらぼうで、結局、どちらも暖かく世話しているとは言い難かった。
 彼女等は見かけの上では、ほぼ「少女」と呼ぶにも幼なすぎると形容できる年齢にしか見えないが、特に姉のアリスの方の、やや古めかしい流麗な発声(カイトがアリスのこれを、灰色エルフ語の強い訛りのせいだと知るのは、ずっと後になってからのことである)と、異様なほどの落ち着きのある声色と口調、語彙からは、見かけ通りの年齢とは信じ難かった。一方で妹マリアの方は人見知りといい、少なくもその言葉といい、かなり見かけ通りらしいが、ときどき仕草や声色に、カイトの予想だにしていないものが顕れる気もする。
 双子の少女らは、他の点ではなにひとつ見分けがつかないが、ただ、そのくすんだ赤い髪が、妹のマリアが短い髪で(外から帰ってきた時など)外套の頭巾(フード)をよく被っているのに対して、姉のアリスの方は腰まで届く長い髪をしており、そのため外套の頭巾を使わずに、先のとがったつばの広い青い帽子を持っていた。外套も短衣も、老人と同じほとんど黒といえる青で、──そして老人も幼い少女らも、ひどく長らく野にさらされたように日焼けしていた。
 「どうやってこんなふうに治癒したんだ? 何の治癒呪文を使ったんだ?」
 カイトは、アリスが薬を煎じにやってきた時に、尋ねてみた。普段からきつい当たりなのだが、会話になりそうといえば、(いかにも残念だが)人見知りする妹よりは、姉の方だった。
 どういうわけか、オークとの戦いや尋問の際に受けた傷跡をはじめとして、カイトの外傷はすっかり消え失せていた。これほど完全に、最初からなかったとでもいうように傷を治すには、『魔道士協会』の理論では、本人の治癒能力を増幅させたり、さらには、周囲から集めた気を注ぎ込むことによって対象者を回復させる最高レベルの『治癒呪文』でも、ここまで完全に跡形もなく治癒するのは不可能なはずだ。……しかし、今彼等は、薬草のような(カイトの感覚では)原始的な手当てしかしていない。当初はどういう治療をされたのだろうか。
 「今やってることと同じよ」アリスはぶっきらぼうに言った。「薬草を煎じて、貼って、飲ませて」
 「そんなんじゃない」カイトは苛立った。「どんな呪文を投入したのかって聞いてるんだよ!」
 「……なに?」アリスはぐいと眉間に皺を寄せた。
 「傷が時間が逆戻りしたみたいに跡形もなく消えてるだろ!? こんなのはありえない!! こんな、破損した精神面(アストラルサイド)ごと取り戻すみたいなこと、人間の魔力容量(キャパシティ)でできるわけないだろっ!?」
 「あんたの言うことは、何ひとつ意味わかんないわよ」アリスは柳眉を激しく逆立てた。「聞かれたから答えただけよ。それ以上は、あんたの駄法螺につきあう義理はないわね」
 そう言ってアリスが唐突に立ち去ったので、カイトは落ち着いて考えた。アリスの言を聞いてカイトは慌てて考えついたことを口走ったが、アリスのあの表現が何かの間違いであることは明白だ。アリスはカイトの言葉どころか、自分の言葉の意味もわからずに言っていたに違いない。「精神世界(アストラルサイド)」のような正確な用語でなく、ああいったカイトには曖昧にしか聞こえない語なのがそうだろう。あるいは、それらの傷や、受けたあの状況がすべて、魔族(まぞく)の『精神攻撃呪文』で見せられたただの悪夢だったに違いないのだから──


 数日が経って、カイトが普通に動いても不自由を感じられなくなった頃、まるでそれを示し合わせたように、老人、パラニアが戻ってきて、小屋に娘らと共に集まり、カイトの寝台際に掛けた。
 「もう大丈夫だろう。どこへなりとも行くがいい」
 どこへ行くかなど、カイトの勝手と言うべきだが、パラニアのその言い方はつまり、”大丈夫”でないうちは彼等が無理にでもカイトを寝かせておくつもりだったことを示していた。
 「……だが、これからどうするかな」そう言ったきり、パラニアはカイトを見つめた。
 「元の世界に帰るっ!」カイトは即座に叫んだ。
 ……こんな所には居られやしない。この土地、この次元世界が何なのか、カイトの知識から判断して一番それらしいのは、(『魔族』の長である『魔王』の姿があったことからも)魔族がはびこっている狂った次元と幻覚の世界だった。たぶん魔族たちが、強いオークやオーガといった非現実的な幻覚で罠を張っている世界に違いない。どのみち、ここに連れてきたあの黒いマントの者(冒険者に罠を張る中級以上の魔族だろう)の、『手ごろなモンスターと財宝』は、嘘八百であったことは確実である。まだ元の世界に帰りさえすれば、カイトは『高レベル冒険者』なのだ。
 「だが、帰り方はわかるまい?」パラニアが言った。
 カイトは当惑した。ここに連れてきた例の人物、”黒いマントと銀と緑の男”を探さなくてはならないのだろうか。
 「”原初の王族”の、次元世界を渡る能力を頼らなくてはならないだろう」が、老人はカイトの次の句を待たずに言った。「ならば、トランプの塔だな」
 「”原初の王族”って何だ。魔族か?」カイトは老人に聞き返した。「”トランプの塔”ってなんだ」
 パラニアはゆっくりと首を振った。「これらの言葉すら知らないものに、説明すら厄介だな。ということは、塔への行き方もわかるまい」
 老人はカイトの寝台際の椅子から立ち上がると、鬚を掻くようにし、
 「……わし達はこれから”モリバントの都”まで行く予定だが、そこの郊外に、トランプの塔がある。来たければ、共にくるがいい」
 アリスとマリアが、同時に老人を見上げ、ついでカイトに目を移し、すぐに再び老人を見上げた。マリアの方は、いかにも見知らぬ同行者に対する不安である。アリスの方は、それは機微にうといカイトにすら明白に見て取れる、カイトへのあからさまな警戒心と、「本気で連れて行く気か」とでも言いたげな、パラニアへの抗議の目である。
 どれほどの旅になるのだろう? カイトはそれを彼らに聞きあぐねた。その理由の半分には、『高レベル冒険者』であるカイトは旅の長短や危険など、人に尋ねる心配などするべきではない、という意識からだった。
 しかし、そこに着くまでに、今後あの悪夢のようなことが起こるのかという漠然とした不安は、道連れの少女らの不信の眼差しと共に消えなかった。





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