イェンダーの徴: とげの生えた指輪







 その指輪を手に入れたとき、”黒い茨のダイ”は確信した。今までの冴えない人生など、かりそめのものだった。遂に、自分の『本物』の人生が始まるのだ。
 同じギルドの遺跡探索を生業にする盗賊らを出し抜いて、特に危険のない遺跡を漁り、この指輪を手に入れた。期待を上回り、街の魔術師の見立てでも、高い能力を秘めた魔法の品だった。能力と運を大幅に高めてくれるだろうという。うだつの上がらない盗賊だった自分が、ギルドの上位メンバーすらもそうそう手に入れたことのない品を手に入れた。
 いや、今までがツキが無さ過ぎたのだ。ダイは一言で言えば、とても冴えない青年だった。孤児として生まれようやくギルド員となった自分は、いい目のひとつも見たことはなかった。きっと無能なわけではない。たぶん知力も素早さも並よりはましなのかもしれない。しかし、同業者の盗賊や遺跡探索者らには、明らかにダイよりも少ない努力で、華々しい成果を上げる者、ギルド内で才能をあらわしていく者はいくらでもいた。酒場の娘たちすら、どう見てもダイよりも見栄えのしないそれらの同業者ばかりになびいていく。そういう者を見て、もともとの才気が冴えないダイは、ますます怠惰になった。要は探索者の、あるいは街に住む盗賊にとって最も肝心の持つべきもの、鮮やかさ、というものに欠けていたのだ。
 だが、ダイは遂に強力な魔法の品物を手に入れた。運も能力も、いい宝物ひとつ引いたこともなく、いい目のひとつにもあったことがない自分の今までの不遇な立場は、悪い夢のようなものに過ぎなかったのだ。ここからが本来の自分、本物の人生なのだ。


 最初は気付かなった。指輪をはめた途端に凄い才能が身についたり運気が一気に上がる、といった気配がなくとも、こと魔法の品であるし、それだけでおかしいとも感じなかった。
 しかし、いくら待っても、ダイ自身には何も起こらなかった。変化したのは、周りだった。いや、何かが変わった、というのも正確ではない。周りのものすべて、風景も街並みも土地も、住人の面々もすべて前と同じで、何ひとつ変わっていない。違うのは、それ以外のもの、──そう、まさしくそれ以外の細部、としか言いようのないもの、全てだ。
 一つ一つの感触が、”鋭く”、”重く”なっていた。裏路地や夜の闇で向けられる敵意も、荒野の野獣たちの牙も、ダイに向けられるすべてが、心なしか凶暴な力をおびている。そして刃や牙そのものの捌きも、全てが以前よりも鋭く感じられる。敵が増えたなどということはないのに、周囲の環境はダイにとって前よりも遥かに危険になっていた。自分の感覚が鋭くなった、というものではない。自分は変わらず、むしろ危険になった周りよりも、鈍重に感じられるようになっていた。
 周囲がこんなふうに変わる前ですら、盗賊として有能とは言い難かったダイは、いまや死に物狂いで生きる必要に迫られた。路地の陰を歩く、人を避ける、野生動物を避ける、すべてに神経を張りつめさせることになった。今までは気を配ったことすらなかった、それらの隅々の光景にも、危険の兆候に怯えて、逐一凝視するようになった。
 そのように見るようになって、気づいた。光景の陰影が濃くなっている。気づかなかったのではなく、それまでと明らかに変わっている。そういえば、食べるものの旨い不味いではなく、ずっしりとした味わい、苦みや渋みなどの複雑な味の混ざり具合。ひいては、空の色の深さ、空気の匂いの清涼さや汚れ。どれをとっても、周囲の環境のすべてが、全身にのしかかってくる圧力を感じさせていた。
 この指輪のせいなのか? ……ダイは裏道の奥の物陰にじっと身をひそめ、改めて、右手の親指にはまっている指輪を見た。材質のよくわからない金属の指輪で、やけに角のある、縁に沿って握ると痛みを感じるほどの鋭い鋭角が多数刻まれている。街の魔術師は、呪いの品や、利益に欠点が裏返しで付いてくる魔法といった兆候は全くないと言っていた。少なくとも、増強だろうが呪いだろうが、指輪をはめて変わるのは”自分”のはずだ。周りが一斉に変化する魔法の指輪など聞いたことがない。それとも、実は自分が変わっているのか? それによって周りがこんなふうに見えるのか? だとしても、何がどうやってこうなる? 周りの光景の細部、さらには体験の全てが『実存性』『重み』を増して感じられるという、この異様さが……
 もういちど街の魔術師に会いに行き、もっと詳しく調べてもらおうとするか、あるいはせめて助言を求めるか? ……ダイは、漆黒の陰がそこかしこに落ちている裏道を見つめた。あの陰にどんな”鋭い”危険が潜んでいるものか。さらに、ここから出て表の街道に出れば、さらに遥かに危険だ。いまや、たどりつくことすら覚束ない。
 これまでも何度か迷い、実行しかけて止めてきたが、ダイは指輪に手をかけた。指輪を外すことで、周りは元に戻るのか。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。何がどうなるかわからない。なにしろこんな指輪のことは、誰も聞いたことがないのだ。だが、このままでは何も好転しない──ダイは手をかけた指輪を、まだ躊躇いつつも、引き抜こうとした。
 「外しては駄目です」突然、真向いの目の前から声がした。「手放すだけだと、ここの世界に取り残されて、戻れなくなります」


 鈴のような童女の声だった。それは比喩ではなく、まるで人の会話というよりは無機物の共鳴の音のように平坦だった。
 ダイは目を上げた。そこに立っている人物は、間違いなくさっきまでは居なかった。自分が指輪を見つめ続けて、周囲など見ていなかったうちに近づいたのか、それとも何か別の手段で、本当に突然出現したのか。13、4歳くらいの童女で、ビロードのローブをまとい、明らかにサイズが大きすぎる先のとがった鍔広の帽子をかぶっている。ローブも帽子も刺繍や金属の装具などきわめて装飾過多で、魔女らしいともいえそうだが、こんな派手ないかにも魔法使でございというような姿は、本当に魔術に携わる者などではなく、せいぜいがお祭りで仮装している者だろう。赤銅の金属光沢のある髪と同じ色の瞳は、さきの口調同様に平坦、というよりむしろ眠そうに無気力に見える。
 「指輪を外して元の世界に戻りたいなら、私の導師(メンター)と話すのがいいです」童女は一方的に言ってから、すたすたと歩き出した。
 ダイは躊躇ってから、おそるおそる後ろに続いた。どうせ他にあてになるものもないのだ。ただし、他の危険は警戒しながら動いた。街の中を歩くのも命がけなのだ。
 目の前の童女はそんな警戒に気づいたか気づかないでか、あまり移動はせずに立ち止まった。とても重要な地点だとは思えない、ダイも見慣れた井戸端だった。さらに、童女は大きな木のたらいの傍に立ち止まった。
 童女はたらいの横の大きな石に腰を下ろすと、手を伸ばし、丸みを帯びた幼い指で、たらいに張られた水の上を、何かなぞるようにした。水は異常に澄み切ってきた。別に透明になったというわけではない。たらいの底が見えず、際限なく深くなったかのように見える──その奥に、童女でもダイでもない誰かの姿が映った。ダイは慌てて上を見たが、水面の上には他に誰もいない。おそるおそる、再び見下ろした。
 水に映っているのは少年だった。童女とせいぜい同じくらいの歳のころで、黒っぽい服と青い目、同じ色の簡素なマントだけをかけている。背景はよくわからないが、洞窟のように見える。
 「マール、連れてきた」童女が水の奥の少年に向けて言った。
 「どっから話してるんだ、ニムエ」奥の姿は、声も少年そのもので、かすかな田舎の訛りのようなものがあった。
 「たらい」童女、ニムエは素っ気なく答えた。
 「そんな狭い水じゃ、ぼくがそっちに行くのは無理だ。なんでそんな水を選んだんだ」
 「遠くまで行けないもの」ニムエは眠そうに言った。
 「じゃ、ここから話すしかないか……」少年は水面ごしにダイの方を見た。
 「……誰なんだ、君たちは」ダイは思わず聞いていた。
 「ドルイド僧だよ。枝葉と、その形に編まれた呪文を集めるのが生業」マールと呼ばれた少年は言った。「あなたのその指輪と、同じものを追っていて、集めてるんだ」
 マールは水面ごしに、ダイの右手の指輪を指さし、
 「いいかい、その指輪のせいで、あなたは『元いた世界とそっくり似ている』けれど、もっと『緻密度の高い世界』にいる」
 マールはそこで言葉を切ったが、ダイのまともな反応がないので、
 「『多元宇宙(マルチバース)』は、互いにそっくりだけど少しずつ違った並行『世界』同士が隣り合ってる、って話は聞いたことはある?」
 「少しはな……」街やギルド付の魔術師から、ダイも聞いたことはあった。
 「どういうふうに隣り合っているかっていうと。形が似た単位が隣り合って、寄り集まっている。ところが、集まったものの全体の集合の形は、もとの単位の形とよく似ている。それがまた集まって、無限に続いている。集合は、単位と一見そっくりな形だけど、単位の可能性を全て内包していて、緻密度──つまり規模、複雑さ、情報量の何もかもがずっと高い。……多元宇宙の原理はこれだけじゃないけど、そういう考え方がある。少なくとも、そういう仕組み、その形の呪文をなぞれば、となりあった似た世界や、緻密度が低い・高い世界を移動できることがわかってる」マールはそこまで言ってから、「言葉だけじゃわかりにくいだろうけど、その指輪を水に漬けてみると、手っ取り早い」
 ダイは右手の指輪をたらいの水面、マールの隣に漬けてみた。
 そして、危うく飛び上がりそうになった。指輪からは、水面一杯に模様のような輝きが映し出されていた。指輪を中心に、無数の棘が伸び、際限なく枝分かれして、幾度もねじ曲がって膨大な量の棘を視界に収めている。棘は限りなく細かくなっており、棘の一部の形状はより大きな棘の形状によく似ている。その反復を目で追っていくと、吸い込まれそうだ。特に模様が動いているわけではないのに、自分が大きくなり、または小さくなって、否応なく吸い込まれていくような錯覚──ダイは無理矢理目をそらしてから、直後にどうすればよいか気づき、右手を水面から引きはがした。
 「”イェンダーの徴”のパターン自体も、あと”徴”の呪文を組み込んだ物品も指して、『イェンダーの魔除け』だとか、『とげの生えた指輪(スピカード)』だとか呼ぶ。その指輪は、”徴”の力で、緻密度が低い世界と、高い世界を繋いでいる物品なんだ」
 ダイはおそるおそる右手の指輪を見下ろした。
 「世界同士そのものもそうだし、その中にあるもの全てもそうだ。似ている世界でも、緻密度の高い、枝の元にある世界の方が、何もかも規模が大きく、情報量が多い、”影が濃い”。枝の先にあるもの、しかも無限に連なっているものの全部が、内包されているわけだからね」マールが続けた。
 ダイは再度指輪を見下ろし、「魔法の指輪は、力をくれるものじゃないのか……自分が強くなれるんじゃないのか……」
 「ある意味ではそうだよ。大きな力に接触できるということが、力がどういう形で入ってくるか、どう使えるかの違いでしかない」マールが言った。「”徴”を見つけ出した『イェンダーの魔法使い』みたいに、この徴を制御して、移動したり、例えば緻密度の高い世界を支配して低い世界も掌握したりする者もいる。だけど、無造作にいきなり緻密度の高い世界に引き込まれたりすれば、相応の危険もある。自分はそのままで、周りの何もかもが一回り、言って見れば周りの力が全部強くなった世界に放り込まれたのと同じだからね」」
 ダイはもう指輪を見ることもなく、沈黙した。
 やがて、マールが言った。「……ぼくやニムエなら、その指輪を外すことはできるし、あなたを元いた世界に戻すこともできる」
 「できるのか……」ダイは顔を上げた。
 「さっき言ったように、魔法使なら徴を制御できる。その”徴”を逆に遡るように、術を編めばいいわけだからね」
 ダイは頷いた。「やってくれ」
 ニムエが無言で、小さなヤドリギの枝のようなものでダイの右手に触れると、指輪は外れた。それはニムエが拾い上げた。
 「ぼくがそっちに行けないから、ある程度はニムエを介して術をかけるしかない。それと、もうひとつ大事なのは、帰るそこが、あなた自身の立っていた世界だって点だよ」そこでマールはなぜか、水面から身をのりだすようにして再度尋ねた。「もういちど、ひとつ聞くけど。本当に、元の世界に戻りたいのかい……」
 「もちろんだ」全ての影が濃いだか何だか、だとのことだが、何もかもが鋭く強い、こんな危険なところに、これ以上居られるものか。
 ダイは水の中のマールと、自分の隣のニムエが共に手をかざすのを待った。しかし、本当にこの危険な場所から、元の世界に戻してくれるのだろうか? そんな体験はないので当たり前だが、急に不安が沸き上がって来ると、ダイは二人以外の周囲を見回し始めた。
 「そわそわするんじゃない。そわそわされると、心が乱れて集中できなくなるんだ」マールが水面ごしに、ダイの方に手をかざしながら、眉をひそめて言った。「元の世界がどんなものか、自分がどんなふうにそこに立っていたかは、覚えているだろう──間違いなく、そこに帰りたいと思うなら、──」
 しかし、すでにその先からもマールの声はだんだん薄れていった。
 ……ダイは辺りを見回した。まったく元と同じ、裏路地の井戸端の光景だった。たらいは転がっているが、水は入っていない。当然、ニムエやマールの姿もなかった。
 ダイは息を大きく吸った。吸い込む空気の匂い、気圧そのものが、ふわふわと軽く感じた。気分も軽くなった。何もかもが重苦しかった世界から、無事に元に戻ったのを感じた。


 最初に気づいたのは、そのあと何日か経ってからだった。いや、確実にわかったのは、さらに何週間かが経ってからだった。
 問題や危険が生じているわけではない。どちらかというと、万事が良くなっているようだ。闇からの刃や獣に脅かされることも特になく、仕事のツキも成果も悪くない。周りの同業者、ダイよりも才能がある者が、ダイよりも努力しても、ダイほどの成果は上げられない。前よりもうまくいっている。
 しかし、気のせいかもしれないが、確かに成功しているが、何かが足りない。何をやっていても、手ごたえがないような、軽い感触しかない。どんな成功も、手に入れた金品も、妙に魅力がなく、存在感がない。美しかったはずの光景も、まるで鮮明さがない。今ではにこやかに寄ってくる酒場の娘は変わらず造形は美女だが、なぜか容貌にも、いや、存在感全体に、奥行きというものが感じられず、薄っぺらい。周りのすべてが軽い、陰影が薄い。前に”緻密度の高い”世界をしばらく体験したから、その反動でそう感じてしまうだけかもしれない。だが、──
 ──ここは、自分が最初にいた、元の世界ではないのではないか?
 緻密度の”低すぎる”、自分のもといた世界よりも、ほんのわずかに”影の薄い”世界、そっくりだが内容の薄い世界に来てしまったのではないのか? あの時、自分が見たあの”徴”の枝分かれの繰り返しの一反復か二反復ぶん、緻密度の低い世界に来てしまったのではないのか?
 もしそうだとしても、そうなった理由はわからない。遠くからたらいの水ごしに術をかけたマール、または弟子のニムエの術が、不完全だったのかもしれない。だがそれよりは、──自分が、元いた世界を、本当はよく知らなかったのではないか。
 別れ際のマールの言葉を思い出す。自分の元の生きていた世界について、自分がその世界にどのように立っていたかについて、自分でも本当にわかってはいなかったのだ。元いた世界では、成功できないのをツキや他人のせいにして、自分がどんな世界にどのように立っているかなど、正視しようとすらしていなかった。本当に帰りたいのがどういう所なのか、自分でも知ってはいなかった。正確に戻ることなど、できるはずがなかったのだ。
 今いるこの世界なら、ダイは確かに成功できる。周囲の、ギルドの同業者らに対しても、抜きんでた才覚を表すことができる。しかし──ここで成功して、ここで得た物、ここで誰かにまさったところで、一体それが何になるというのだ? どんな成功や成果、手に入れた物、いずれも何一つ歯ごたえ、充実感や達成感をもたらさないのだ。
 ……なので、”黒い茨のダイ”は、再びあの指輪を探し出すことにした。ここが、元の世界と細部まで似た形状の世界だとすれば、ここの世界にも、あの指輪の相当物があるに違いない。それを見つけ出して再度、より緻密度の高い世界に──自分の最初に立っていた、あの世界に戻るのだ。
 今のこんな世界で何の成功があろうとも、虚ろなかりそめのものでしかない。指輪を手に入れ、成功できず悩んでいたあの世界、自分の出発点へと戻ったとき。遂に、自分の『本物』の人生が始まるのだ。





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