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洞窟に入ってきたふたりのうち、やや先行して歩いてきた一人は、やたらと面積の少ない薄地の革装に、背負い袋に剣帯、ひと眼で迷宮探検家の類、おそらく盗賊とわかる、青紫の髪と瞳の女だった。全身の動きも表情も非常にやつれた様子で、やっとのことでここまで歩いてきたかのように見える。
もう一人は、マールと同じくらいの歳恰好・背格好で、先の尖った鍔の広い帽子を被り、装飾過多な丈の長い黒い外套をまとっていた。前の皮鎧の女に足取りは長い距離を歩いてきたとも思えないほど素っ気なく軽いが、どことなく全身の空気がけだるそうで、特に目が眠そうだった。髪も瞳も光沢のある赤銅色だった。
どちらも、髪や瞳がとても人間のものには見えないのが、リオンや戦士団をたじろがせた。
「もどってきたことには来たけど」革装の女、”虎の鉤爪のリゼ”は、ふらふらと洞窟に入ると、憔悴した表情で言った。「説明することはあるが、──ミトラの名にかけて、まずは少し休ませてくれ」
リゼは、革の下に波打つしなやかな肢体(実のところ、髪や目の青紫は月(ムーン)エルフの血によるものだったが、それ以外の豊満な体格や大きな瞳がまるでエルフらしいところがないので、誰も想像だにできなかった)にそぐわない、活力のまったく欠けた動きでマールのそばの岩に近寄った。そして、大きな石の円盤状のプレートを、マールの傍らにどさりと置いた。
それから湖の水辺の一角に歩いていくと、豪快に岩の上にあぐらをかいて(革装の下の露出した太股が気になるほどに)座り、『Cレーション』『Dレーション』と書かれたそばの大きな紙箱から缶や紙包みをとりだして、開け始めた。
外套の童女、の方はその一連のリゼの動きを目で追ってから、すたすたとマールの傍の岩に歩み寄った。
「マール」ニムエは帽子を取って言った。「またすぐに出かけることになるの……」
「場合によるけど、たぶんそうだ。困るかい」マールが応えた。
「リゼさんが」ニムエが、不思議な赤銅の光沢のあるその瞳(ただし目の表情は光を反射するでもなく、落ち着いて凪いでいる、というより眠そうに覇気がない)だけを動かし、疲労と負傷でうなだれている、半妖精の女盗賊を示して言った。
「消耗がひどいか。なんか居たのかい。リゼを打ちのめすほどのやつがさ」
「地元素霊(アースエレメンタル)」ニムエが平坦に答えて、「私の術も効かない──信者たちじゃなく、女神の本人の発動した呪文で動いてたやつが」
「本人が発動する必要があったってことは、他人にやらせるには──女神として他人に与える恩恵には限界がある、ってことでもあるな」マールは傍らに置かれた、謎の記号の描かれたプレートに目を落とし、「リゼには災難だったけど、といっても、それだけの成果はあったよ。女神のシジルを持ってきたなら、それに対抗する呪文も準備できる」
「……わからないことを聞いてばかりで悪いが」
リオンがそのマールとニムエに、さえぎるように口を開いた。
「まずは、そうだな……この洞窟、この場所は一体何なんだ。女神の力は、別の世界からの、と言っているが──」リオンは自分の口にした内容に、改めて当惑したように、「女神の力には、魔法も銃も効かない。だが、ここに来るまでの森でも銃が動作しないし、壊れた。同じことなのか? ここも……僕らの世界とは別の力が働いているのか?」
リオンは壊れた拳銃を取り出し、マールに示した。が、
「おおっ、”トロール神”の名にかけて、そいつは『すい発銃ピストル』じゃないか!」リゼが片手にCレーションの缶切りを持ったまま、突然立ち上がり、目を輝かせて駆け寄った。先ほどの疲労でやつれたような活気のなさはどこかに消えている。
今リゼが発したのは、リオンにはまるで意味不明の名詞だったが、リゼがしげしげと眺めている銃にリオンも目を落とし、そしてぎょっとした。戦士団の制式指定の銃が、まったく別の形状に変わっている。見たこともない形状だが、強いて言えば、1、2世紀前の旧式の機械のようだ。
一方、リゼは戦士団から残っている銃を一丁受け取ると、Cレーションと並んで置いてある木箱(『妖精郷産』と書いてある)を開けた。中には赤さびの、染料の粉のようなものが入っている。リゼはそれを受け取った銃口から詰めはじめた。
「ここや、その周辺の世界では、火薬そのものが爆発しないんだ」マールが、まだ当惑しているリオンに言った。「このグラストンベリでは、君たちの世界、イグドラスとは化学の原理、いや、物理法則そのものが違う。ここでは化学反応も、ある程度魔術と組み合わせた反応も、ほとんど起こらない。もっと優先される原理がある。銃が変化したのもそのせいだけど、なんで撃とうとすると壊れたかっていうと、こっちはもっと複雑な話なんだけど……『機械的な構造』に対する『確率の分布』そのものが違うんだ」
と、そのとき、鈍い爆発音と大量の煙が巻き起こった。リオンらが知っている火薬の音や臭いとは全く違っていた。しかし、湖の対岸にある岩が銃弾で欠けたのを見て、リオンは目を見張った。
「おおおぅ」銃を構えたリゼも驚きの声を上げた。
「ここで試射するんじゃない。一応屋内だよ」マールが半妖精の女盗賊に言った。
「あいやすまん、クロムにかけて、まさかうまくいくとは──」リゼがうめいた。
「それこそクロムの仕業ってやつだよ。『妖精郷のべんがら』で、うまくいかない理由がないじゃないか」マールは肩をすくめてから、「あの粉だけは、火薬が爆発しない世界でも、まったく別の原理、法則で爆発するんだ」
マールは再度リオンに向かい、
「いいかい、この多元宇宙(マルチバース)は、無数の平行世界からなっていて、すべての世界で、少しずつ世界そのもののつくり、原理が違う。だけどその根本には、それらの要素を全部含んでいる、より緻密度・複雑度の高い世界がある。それが無限に続いている。多元宇宙の構造は、枝が合流していくような”徴”でも現せる」
マールは枝、というより羊歯のような模様を宙に描いて見せ、
「その女神とやらは、君たちの世界よりも遥かに緻密度、複雑度の高い世界から来て、遥かに膨大な情報量、高密度の能力を持ってる。その中から君らの世界とは別の法則を選ぶことだってできるんだ。女神とやらが、君たちの世界に元からいたイグドラスの神よりも強力に見えるのも、その女神が教団に与えた力に、君たちの世界に元からある火薬や魔法の原理が効かないのも、そのためだ」
「その女神、別の世界だとすれば、どこから来たのか……正体を知ることができるのか?」リオンは考えてから、「女神、教団でもいい……止める方法は見つかるのか?」
「知る方法はいくつかあるよ。例えば、自称女神とやらが君達の世界で力をふるうために使っている、呪文や紋章だ。特に、”自分の血筋”にしか取り柄が無い、小物の悪霊の貴族のたぐいは、『自分の名において命ずる』といった命令を使わざるを得ないからね」マールが言った。「例えば、その神殿を介して信徒らに力を与えているなら、神殿には女神の名や紋章と称して、その正体の名前や血筋に繋がるものがあるかもしれないってことさ」
マールはプレートを少し眺めてから、それをリオンの方に向けて言った。「これが今リゼが神殿から持ち帰った、女神とやらのホーリーシンボルだ」
リオンはプレートに刻まれた、文字の組み合わさった記号を見るなり言った。「見たことがない。僕らの世界の文字でも、魔法の記号にもこんなものはない」
「これは別の並行世界の”魔神のシジル”だよ」
マールはまたしばらくの間プレートを眺めてから、となりにいるニムエに渡した。マールは立ち上がると、懐からカードの束を取り出した。掌より少し大きい程度の分厚いカードで、緑に後ろ足で立った一角獣の紋章が描かれている。それを何度か切ると、札を引き出(トランプ)した。
洞窟の光景が急激に変化した。リオンも戦士団も一歩も動いていないにも関わらず、岩だなの細部と陰影が次第に変わり、遥かに広い青みがかった天井に変化してきた。ニムエと、そしてまだレーションをかじっているリゼは平然としているが、リオンと戦士団にはもはや言葉もない。
「別の世界(ワールド)の、ソロモン王の低位の鍵、の紋様の中にある半次元界(デミプレイン)だよ」マールがカードの束をマントの奥に戻しながら言った。「ある魔術師が、レメゲトンの魔神らにいっぺんに呼びかけをしやすいように、結節点(ノード)を作っておいたのが、何千年経ってもそのままになってるのさ」
「ソロモン王とかレメゲトンとかいうのは何だ──」リオンがやっと言った。
「きっと後で説明するよ」リゼがCレーションの袋から出したビスケットを頬張りながら、もぐもぐと言った。「あとになってもその必要があればだが。その必要ってか、その説明どころじゃなくなるような気もする」
洞窟の中にあるものも変化していた。いくつかの大きな岩が転がっているが、それらはよく見ると上部が穿たれた、数抱えもある石の水鉢だった。すでに水が張ってあるものもある。
「これから何を……」リオンの語尾がかすれた。
「あのシジルに対応する魔神と、今ここで交信するんだと思うよ」リゼが頬張り続けながら言った。「つまり、女神とやらの正体と、だけど」
マールは大きな水盤の前で立ち止まり、ニムエが掲げているプレートのシジルを、水の上に指で描くようになぞった。
凪いでいた水面は、リオンや戦士団にすら見てわかるほどにその上の空気の流れが変わり、陽炎のようなゆらめきを発した。水上のシジルはまばゆく発光している。その『魔法の鏡』の上のゆらめきの濃淡と陰影はさらに著しくなり、やがて洞窟の風景とはかけ離れた映像が見えるようになった。
豊かな明るい緑色に囲まれたその風景の中に、まさに女神ともいうべき像が浮かんでいた。まばゆいほどに豊かな金髪と澄みきった藍の瞳、薄い緑の服に包まれた肢体は豊満で艶めかしさすらあるように見え、慈母の包容力と乙女のような輝かしい若々しさをあわせもっていた。
「わたくしは光の女神、自然の化身、緑の心のベール。わたくしを呼ぶ者すべてに、無量の恩恵を、あなたの望むすべてを与えますわ」女神は薄く目を開き、水盤の前で沈黙している聴衆、リオンと戦士団を見下ろして、天上の楽の音のように朗々とかつ澄み切った声をかけた。「さあ、あなたは何を望みまして?」
「そんな誘惑をする意味のある相手なんて、この場には誰も居ないぞ」マールは平然と、むしろ呆れたように言った。「喚ばれた術式、場所と相手を見てものを言えよ、”サレヴォクの娘バエレト”」
少年の姿、さらには呼ばれたその名に、藍の目が急に吊り上がった。
「じゃあ、何のために呼び出したりしたのよ、”コーウィンの息子マーリン”」緑の女神は少年に目をおろして、さきほどの優しい声音とは別人のように低く言った。「そもそも一体どうやって……」