イェンダーの徴: 緑の女神とモーロックの聖域








 1


 広間から恐らくさほど遠くない場所で地響きと、もっと甲高い破裂音がした。
 ほとんど間を置かずに、二つの人影がその広間に飛び込んできた。駆け続けている方は、体の線がはっきり出るような革装をまとった若い女で、不自然な紫がかった青い髪を房に束ねている。もうひとりはさらにずっと小柄で、先のとがった鍔広の帽子に丈の長いマント、真鍮色の光沢のある髪と瞳の童女だった。先の革装の女より小柄なはずだが、足取りが早い、という様子が全くなく、石畳の上を滑るように、しかし全く遅れずにあとについてくる。
 二人が駆け込んだ広間は、天井がにわかには見えないほどに高く広い、石造りの神殿の一室だった。石を摩耗させる風のあたるような場所ではないはずだが、壁や床の表面は明らかに古びており、相応の年月を感じさせる。
 革装の女盗賊の方は、一度立ち止まり広間の中を伺った。中ほどにある石の台座と、その上の人間大の像に目をとめた。これも古びて表面が摩耗しているが、もともとが細部の形状まで作られていないのかもしれない。神像と思われるそれは、石の手に護符のようなものを握っているが、別材質の護符の鎖は石の中に握りこまれており、取り外すことは不可能で、どうやって持たせたのかすら謎だった。護符の本体の材質は、石や金属でも木でもない見慣れないものでできている。
 「リゼさん」尖った帽子の方が、女盗賊に小さく声をかけた。ひどく平坦で急いた様子も何も感じられない声だったが、女盗賊、”虎の鉤爪のリゼ”は、なぜか促されていることがわかったのか、像から目を離した。この広間に何か急いで駆け込んできたようだったが、この像は目的のものではなく、よそ見だったらしい。かわって、リゼは広間の壁を見回した。
 「いや、だけどさ」リゼは視線を壁面に沿って、横に滑らせていった。「このうちのどれなんだ、ニムエ」
 広間の石壁一面には、神殿にはよくあることだが、奇妙な文字のような模様が刻まれている。
 「クロムとセトの名にかけて、一体どれだ……」リゼは焦りのにじんだ口調で繰り返した。
 「リゼさんも魔術の心得はあるって聞きましたけれど」ニムエの方は、眠そうな目と口調のまま平坦に言った。
 「そう言われたって、その目的の『魔神のシジル』とやらは、元々私の世界で使われてる文字じゃあないんだ」
 「この神殿では、その紋章だけ『あとづけ』されていると思います」ニムエが言った。
 「こいつか」リゼがその言葉に、壁の一か所に目を留めて言った。
 石壁の高い箇所に掲げるように取り付けられていたのは、一抱えくらいはあるプレートだった。模様そのものも石壁の他の絵文字とは明らかに異質で、それ自体はもっと簡素な文字が縦横に多数組み合わさってひとつの紋章になっているように見える。
 間髪いれず、リゼは壁を昇りはじめた。元々足がかりの多い神殿の壁だったが、凹凸と露出の多い革装の肢体が目的の紋様に難なく到達するまでの動きは、猫科の動物ように滑らかだった。リゼは腰の後ろから闘剣(グラディウス)を抜き放つと、それを壁とプレートの間に突っ込み、こじり始めた。
 「”トロール神”の名にかけて、こいつは結構面倒だぞ……」リゼが剣をひとしきり、様々な方向から試した後に言った。
 と、ニムエが今しがた自分たちの出てきた通路の方に視線を向けた。まだかなり遠いが、その先から少なからぬ足音や、叫ぶ声が聞こえてくる。
 が、ニムエはさらに逆の方向に首をめぐらせた。反対側の通路からは、ひどく重たい音が、非常に緩慢な感覚ではあるが、しかし確実に断続的に続き、それが次第に大きく近づいてくる。
 ニムエは無言で壁の上の方のリゼとプレートを見上げた。リゼはまだ剣をねじったりプレートを引っ張ったりしているが、特に状況が変わったようには見えない。
 ニムエは目をおろし、樫の枝をそのまま割いたような形状の杖を片手に掲げると、その石突部分で床に何かをなぞった。そのなぞった形状自体がドルイドの木の枝のような形の目印に見えた。
 石の床が突然、表面の質が変わった。床の表面が陽炎のように、あからさまに空気の流れ方が変わり──いや、その表面すべての動きが遅くなり、停滞したように見えた。
 多数の声が聞こえた方の廊下の、その騒ぎが大きくなり、神官着をまとった数多くの姿が出現した。かれらはリゼとニムエの姿を認めそのまま広間に駆け込もうとしたが、何人かがぎょっとして足を止めた。むしろ、足を止めなかった者が、足が床の上にねばりついたように、異常に動かしにくくなっていることに気づいた。人の群れは入り口付近に停滞した。
 ニムエはその姿を確認すると、改めて別の模様を人々と、リゼの昇っている壁との間をさえぎるように書付けはじめた。
 「ルーチェ様!」神官着のひとりが通路の奥を振り向いて叫んだ。
 「何をやってるの!」奥から女の声が応えた。
 「ホールドの呪文か何かで部屋に入れません!」
 「入れなくったって攻撃呪文を飛ばせばいいでしょ!」周りの神官着よりもはるかに贅沢な装飾を施した、法王のようなローブをまとった女が進み出て言った。「ワルキューレのジャベリンを食らいなさい!」
 法王が大仰な叫び声と仕草で腕を振りかざすと、光の槍がニムエに向かって飛んだ。が、それは先ほどドルイドの模様を描いたちょうど上の中空に達したときに、突如、槍の先端が歪んだ。より正確には、その空間にぶつかった部分の進行が停滞し、槍が進むほどに先からぐにゃりとつぶれていくように見えた。(起こっていることを言えば、光の粒子のひとつひとつが減速によりエネルギーを喪失し、)木の実がはじけるような音と共に、光の槍は跡形もなく消失した。神官着の集団がどよめいた。
 「ワルキューレのジャベリンに精神抵抗することはあるが、完全にかき消えることなんてあり得ないぞ!?」その声のひとつが言った。
 「あんなの、人間の魔力容量でできるわけがない。魔族だ!」さきほどの法王のローブの女のそばにいる高司祭が、ニムエを指さしながら法王に言った。「われらが女神に盾突くなんて、魔族しかありえない!」
 「いや、魔族や竜族だってあんなのありえな……」別の声がした。
 そんなやりとりには目をもくれず、リゼはプレートと壁の間のあちこちに剣を突っ込んでは梃子のように動かしてもぎとろうとしていたが、プレートはびくともしなかった。と、その剣を握る手に、壁を介して地響きのように重たい振動が次第に伝わってきて、リゼは思わず振り向いた。
 神官らとは逆側の通路から広間に姿を現したのは、まさしく土くれの塊のような巨人だった。そのあたりの丘の岩盤と土塊がそのまま起き上がって人型になったかのように、苔や草が全身に付着した、かろうじて通路を通れるといった巨大な姿だった。見かけ通りの緩慢さと、そして見かけ以上の質量が、挙動と足音の全てから手に取るように感じられる。
 「『緑の女神』の御使いだ……」神官着の誰かが言った。
 ニムエは再度、リゼとその巨人の間をさえぎるあたりの床に、何かさきほどと似た模様を書き付け始めた。鈍重な足取りの巨人が、さきと同様に床の表面の速度が変わったあたりにさしかかったが、しかし、こちらは元から重たいその足はなんら緩む気配がなかった。土くれの巨人はそのまま、まっすぐリゼの方に向かってくる。
 「ニムエ、なんとか食い止めてくれ!」リゼが剣をがんがんと突き刺し続けながら言った。
 「だめです」ニムエが無表情で言った。
 「だめですってそりゃ──あああ!」プレートにしがみついたまま、リゼは上体だけひねって剣を振り回し、間近に迫った土くれの巨人の顔面(と思われるあたり)に数回叩きつけた。が、何一つ状況に影響はなく、土塊の巨大な拳がリゼの身体の側面まるごとを張り飛ばした。
 「へぶーーし!!」リゼの身体は一直線に真横に飛び、石床に叩きつけられた。そして、石の堅い面の”動きが停滞”している表面に、まるで羽根布団に埋まるようにゆるやかに受け止められ、無事に数回跳ね返った。それから、”停滞”の領域から外れた地点で顔面を石床に強打した。
 リゼはやっとのことで身を起こした。
 「取れた」リゼはその手に、端が欠けたプレートを抱えていた。
 「行きましょう」ニムエは小さく言うと、物陰に、さきほどの像の石の台座のうしろに入り込んだ。プレートを抱えたリゼが、這うようにそれに続いた。
 ……神官着の一団はすぐにその像に駆け寄り、台座のうしろを、いや、うしろといわず、その像と台座の周り一帯を繰り返しぐるぐると回って何度も調べた。しかし、リゼとニムエの姿はあとかたもなかった。まるでその像と台座の伸ばす”影”の中に溶け込んだかのようだった。





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