イェンダーの徴: デルファイの隅の人馬像







 7

 自然の地震のような前触れも何もなく、大地が激しく上下に震動した。もっとも、広域の地震に伴うような鳴動も起こらない。範囲が極めて狭く、せいぜいが百数十フィート程度の規模のものだった。呪文で起こされたことは明白だった。聖職者系の地震呪文については聞いたことがある。リゼの知る限りでは、発動には伝説級の力を要する呪文で、オラクルの扱える呪文でもおそらくは最も高難易度のものだろう。
 リゼでも姿勢を低くすれば立っていられる程度の震動だが、変哲もない平地のそこかしこに地割れが走った。土地の構成が見たところ一様に見えるこの世界の土地でも、やはり土の固さや重さの差、震動による力のかかり方には差があったのか、大きな地割れよりは細かいひび割れが多数生じていた。人を飲み込むほどの大きさのものではなかったが、振動と相まって足を取られるには充分な大きさだった。リゼは期待をこめて、さらにこの殺風景な平地の様相が変わる事、あわよくば巨像の足が止まるのを待った。
 が、やがて、振動も地割れも、ぴたりと嘘のように収まった。呪文ではそう長続きしないらしい。辺り一帯にはひび割れとひどい土煙が残っていたが、それ以上、平地から地形が変わったりといった様子もない。
 そして青銅の人馬像は、地震が収まる前とまったく変わらない勢いで、再び突進してきた。なにしろ足が多く、人間よりもはるかに重く安定しているのだ。地割れや少々の凹凸では、何ら足元を揺るがされることがない。さきほどよりも大きな土煙を巻き起こして突進してくるその多数の足の速さ、瞬発力は、何ら減じることがない。
 ──リゼは追いつめられた思考を必死でめぐらせた。オラクルの最大の今の呪文に、地形を変え足をとめる効果がなかった以上、かなり成す術が尽きている。そのまま人馬像とまともに戦うどころか、突進をかわすことすらもままならない。
 「どうする!?」リゼはアルテウスに向かって叫んだ。「だめもとで川の方か、少しでも逃げ込める場所を探すか──」
 「いや、まだ踏みとどまって食い止めろ」
 リゼはアルテウスのその言葉にオラクルを振り向き、オラクルが何か、まだ詠唱しているのに気付いた。
 と、先ほどとは異なる、怒涛のごとき鳴動が襲った。
 リゼは振り向いて、怪訝げに眉をひそめた。驚くより前に、異様な風景に戸惑った。確かに音の通りの怒涛そのものだった。行く手の傍らにあった川があふれている。空には雲ひとつない、増水もせず緩やかな流れと穏やかな水面のままのその川が、まるで堰を切られたかのように川辺一帯から溢れだしたのである。
 足元を急流にすくわれ、リゼは足をとられかけた。
 「こんな呪文を持ってたのか」リゼはうめいた
 「言ったであろうが! ”運命の大迷宮”に水地形はいくらでもあるのじゃ。水位の呪文は常に準備しておるのじゃ!」オラクルが膝のあたりまでの水流を、ばしゃばしゃとかきわけるように寄ってきて言った。
 魔法使マール、の弟子のひとり、ニムエが同じ呪文を発動したのを見たことがある。さきの地震よりはかなり簡単な呪文のはずだった。本来のありえる水量や流速には何ひとつ関係なく、水面のごく一部の水位だけを上下させる呪文である。本来、荒れている海面や河川の水位を下げる(ロウワー・ウォーター)ものだが、それを逆に発動し、水位だけを上昇(レイズ・ウォーター)させ、川をあふれさせたのだ。
 先の振動で緩くなり、土埃に覆われひびの入った地盤に、増水した水は見る間に吸い込まれた。元々、岩盤が全く無く、植物も少なく泥土がほとんどで、水はけの悪い土地だった。辺り一面は低い水たまりと、ぬかるみに覆われた。
 「いや、これは私達も動きにくいんじゃないのか」リゼは膝近くまでの水たまりを足でかきまぜるようにしながら言った。
 「こうした状況に慣れていないこの世界の土着者の不利の方が大きい」アルテウスが言った。
 「そうなのか!? やっぱり足が多い方が安定してるんじゃないのか!?」
 リゼが言い終わらないうちに、泥沼をかきわけるような巨大人馬像の姿が迫ってきた。乾いた土の上に比べて、さすがに足元が泥では速度こそ同じとはいかないが、やはり不自由らしきものはない、足の速さには何の衰えもないように見える。
 が、がくりとその姿がかしぎ、移動が止まった。青銅の人馬像は、一気に足の付け根近くまで見えなくなるほどに、泥と水たまりの中に沈み込んだ。先に足元に生じていた地面のひび割れ、そのぬかるんだ縁に足がはまりこんだのだ。
 一面が濃い泥水に覆われているために、足元の地割れなどの状況がよく見えない。そうした状況では、例えばリゼたち迷宮探検家は、かえって慎重に足元に気を遣うが──おそらく、このほとんどが平地の並行世界(ワールド)で作られた自動の巨像は、作られた時点で、念入りに足場を探るような動きは組みこまれてはいなかったのだ。



 足をほぼ止めたとしても、あの青銅の巨像はなお強大な相手にはかわりはない。アルテウスによると弱点という足元については、埋まって狙うことは不可能になっている。それ以外の箇所は、全身が文字通り青銅の鎧だ。
 アルテウスが短い槍を構えると、鋼のような腕と槍の穂先に風を切る唸りを伴い、鎧の継ぎ目とおぼしき箇所を狙って一撃を繰り出した。しかし、巨像の青銅の腕は槍を打ち落とした。槍を引いたアルテウスが、束の間手を止めたところを見ると、おそらくあの強大な腕の衝撃が少なからず手に返ってきたのだろう。
 しかし、アルテウスが人馬像に正対し渡り合っているうちに、リゼは膝までのぬかるみを漕ぐようにして、像の側面に回り込んでいた。青銅の腕が槍を跳ね返したそのときに、側面よりやや後ろから──跳躍して一気に上半身に飛びついた。馬に飛び乗るように、といっても、半分足が沈んでいるとはいえ元の世界の馬の1.5倍もの体高の背中だったが、半妖精の女盗賊は雌猫のようなしなやかな体躯の躍動を見せ、いとも軽々と飛び乗った。
 「リゼ!」オラクルが見上げて叫んだ。「見事じゃあ! が──いったいどうするのじゃその先は」
 「だまっててくれ」リゼは逆手に闘剣(グラディウス)を構え、アルテウスの槍との応酬に激しく動く人馬像の半身上で平衡をとりながら、一撃を与える箇所を探った。できれば、霊液(イコール)の導管があるという胸の近くを狙いたいのだが、全身が青銅の鎧そのものの人馬像の上半身には、リゼの力と剣で貫けるような場所はついぞ見当たらない。喉を刺すようなことをすれば霊液が血のように流れるのか? しかし、そうだとしてもことに分厚く守られた首回りに、貫けそうな、というよりもリゼの力で突き立てて何か効果がありそうな場所はどうやっても見当たらない。
 再度のアルテウスの槍の突きに、半身が激しく傾き、リゼは人馬像の背で左側に放り出されそうになった。なんとか足だけで像から振り落とされるのを免れたが、そのとき、人馬像の左前足の付け根の関節が目に入った。この像の足の関節は、他の可動部よりも遥かに激しく速く動くためか、隙間がかなり広い。アルテウスが言っていた弱点の足首にはもちろんリゼの剣は届かないが、導管が胸からその弱点まで、足を伝って流れているとすれば──
 リゼは足だけで人馬像にしがみついたまま、闘剣(グラディウス)に両掌を添えて、渾身の力で像のその左足関節に突き立てた。グラディウスは薄い銅板の手ごたえと共に深々と刺さった。
 人馬像は激しく身じろぎし、泥から足を抜こうとしていたが、剣が関節に噛み合い、その動きもままならなくなってきていた。
 「や……やったぞ!」リゼは跳ね上がるように再び人馬像の背中に身体を上げると、もう一本、短刀(ダーク)を引き抜き、次に突き立てる場所を探した。
 「リゼ、無理はするでない! もうこの次はしくじるのが手に取るように予見できるのじゃあ! これは”高位の神託”なみの重要な予言なのじゃあ!」オラクルが激しくばしゃばしゃと水飛沫を起こして飛び跳ねながら叫んだ。
 「縁起の悪いことを言うな!」リゼはオラクルに叫び返し、「像は、自分の背中に乗った奴は攻撃できないはずだ! 自分の背中の真後ろに腕を回すなんて、誰にだってできないだろう!」
 「タロスはできる」アルテウスが言った。
 「え」
 人馬像の青銅の腕はきしみを上げて、人間の関節とは逆向きに曲がった。
 そして、そのまま青銅の手甲の固めた握り拳が、リゼの横面にぶちこまれた。
 「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しっ!!!!」リゼは身体をくの字に曲げた姿勢のまま、人馬像の背中から吹き飛ばされて一直線に真横に飛んだ。遥か彼方へと空中を飛翔し、そのまま川の穏やかな水面の上に落下するかと思えたが、しかし、飛距離がわずかに足りなかった。川面のすぐ手前、河原のまばらに小石で敷き詰められている、その石の上に顔面からまともに落下した。リゼはそのままうつぶせに倒れて動かなくなった。さらさらと川が心地よい音を立て、リゼの顔面から河原に流れてゆく血を洗っていった。
 アルテウスは、その遥か彼方のリゼの落下を目の端に捉えていたが、その場は動かなかった。オラクルが傍らにいる以上、彼女の守りから離れるわけにはいかない。
 人馬像は左前足を泥にとられ、またリゼの剣で関節の動きを妨げられながらも、まだ強力な両腕を構えている。アルテウスは小盾を構え、自分が槍で突進する機、または相手の突進に備えて、青銅の像の挙措を伺った。
 しかし、アルテウスのその目は次第に、その巨像の手足に不自然さを見てとった。依然として剛力と、振り下ろされる際には速度を秘めたものであろうが、先ほどのようなよどみなく滑らかなものではなく、流れにかすかに間の挟まる、断続的なものになっている。左前足だけでなく、全身の動きが一様にそうなっている。
 アルテウスは巨像の左前足に目を走らせた。泥から抜けようと激しく動いているが、リゼの剣が噛んだ関節部がひしゃげ、水面下に沈むそのたびに、泥水と土砂のぬかるみがその関節に流入している。
 通常、金属の合わせ目から水漏れがすることはあっても、自ら吸い込んでゆく、流入させてゆくことなどない。おそらく、この人馬像がタロスと同じものであれば、霊液(イコール)を全身に循環させる仕組みが設けられているためだ。その働きで、リゼの剣による足の関節の裂け目から、土砂の混ざった水も流入させ、像の全身に循環させてしまっているのだ。手足に生じているのは、まさしく不純物がその機構に噛んだ動きだった。
 もっとも、いくら泥水が多少混ざろうが、霊液(イコール)がわずかでもその青銅の身体に残っている限りは、依然として諸神に準ずる力は持つだろう。《祭界山(オリュンポス・プレイン)》の諸神の血である霊液は、たとえ一滴でも定命の者に、神々の長衣の裾に手を触れさせるほどの力を与えるものなのだ。
 アルテウスは小盾を構え、巨像の足元に踏み込んだ。打ち下ろされる青銅の巨腕を盾でさばき、その動きの流れに断続、欠けが生じた瞬間を狙って槍をふりかぶり、像の左前足の付け根、リゼの剣により生じた亀裂に、槍を突き立てた。
 槍は貫通させることなく、亀裂を大きく開いたままに引き抜き、そのまま背後に飛びのいた。
 巨像の上体はさらに傾いた。左前足は付け根まで泥水につかり、そして、その関節の付け根の亀裂から、胸から足首まで伸びている導管、その循環の仕組みに従って、泥水が大量に流れ込み、かわって霊液が地を覆う水流へと流出していった。
 ……オラクルの呪文による水が引いた後、まだ浅いぬかるみに各所が覆われた平地の上には、巨大な人馬像が、まだ左足の半ばを亀裂に囚われたまま静止していた。霊液(イコール)が全て流れ出し、駆動のための仕組みが停止して、ただの青銅の像と変わらぬものとなっていた。





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