イェンダーの徴: デルファイの隅の人馬像







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 ”運命の大迷宮(ダンジョン・オブ・ドゥーム)”のごく浅い階層、第5階層から第9階層に届くくらいの辺りに、迷宮探検家に助言を与える”デルファイの神託所”がある。
 浅い階層といっても、それは広大な”恐怖の迷路(メイズ・オブ・メイニス)”の規模全体から見ればごく浅部、というだけの話で、何の予備知識もなしに挑戦してここまで辿り着ける迷宮探検家は、ごく僅かである。第9や10階層などは、徘徊する存在(クリーチャー)の危険度から考えても、大概の幻想世界であれば、”名のある(ネームレベル)”者ら、英雄級の頂点、伝説級に手が届き始めるくらいの探索者がようやくそこまで降りられるほどの危険度である。まして、おおよそあらゆる平行世界(ワールド)に存在する、ありとあらゆる地下迷宮の中でも、”鉄獄”などと並んで際立って苛烈なひとつ、”運命の大迷宮”の中を探索する者が、伝説級まで生き延びる困難さは言うに及ばない。
 デルファイの神託所は、そこまで辿り着いた者、迷宮探検家やその他諸々に対して、助言を与える。しかしそれは神託ごとに、その助言の力によってそこからさらに先の階層に進めるかもしれない金言から、何も関係のないものまで、その助言の価値には天と地ほどの差があることでも知られていた。
 神託所のオラクル(賢者)は、神託とは”その意図の伺い知れぬ上方諸次元界(アッパー・プレインズ)の神々”、例えばアポロンやテミスの御心と、オラクルにもたらされるそのときどきの”霊感”に従ったものであるから、オラクル自身の力でもどうにもならない、と説明する。しかし、結局のところ、神託を受けるにあたってオラクルに支払った『お布施の額』によってその情報価値が全く違う、特にある額を境界として”低位”と”高位”の神託がはっきり分かれている、と噂する者もいた。もっとも、真偽のほどは定かではない。この”運命の大迷宮”の仕組みについて、細部まで熟知している者はほとんどいない。
 ともあれ、デルファイの神託所はいつもそこにあり、オラクルはいつも(あるいは、大概は)そこにいる。これは迷宮内の施設ではデルファイに限ったことではなく、ひいては”大迷宮”のあらゆる店や寺院などについて、迷宮探検家がいないときには、その施設の管理者はひとりで一体何をしているのかというのは、各々の施設の存在を知る者が誰しも抱く疑問であった。
 半妖精の女盗賊、”虎の鉤爪のリゼ”は、その迷宮の裏方を支える者どもを助力することになり、そのうかがい知れぬ裏方の動きを知ることになった。──しかし、明らかに、任務以外の助力を背負いこみ、別に知りたくもなかった諸々の事項まで知る羽目に陥ったのだった。以下に述べるのは、その顛末である。
 「ンんまぁーーーぁいッ!!」
 リゼの目の前、迷宮の石床にどっかと座り込んで、果実にかぶりついた直後にその声を上げたのが、神託所のオラクルである。古風な聖女の白いキトンをまとった、しかしリゼよりは体格でふた回り、見かけの年齢では数回り下に見える、長い黒髪の小娘がそれである。
 「この、アルテウスが訪れる日をどれほど待ちかねておったことか」オラクルは両掌で齧りかけの果実を握ったまま、眼を閉じて詠嘆するように言った。オラクルの言葉遣いこそは古風だが、台詞回しにも声質にも神託者の神秘性のかけらも無かった。「やはりアルテウスの持ってくる《祭界山(オリュンポス)》直産の作物にまさる滋味はないのじゃ……もう占いクッキーの生地は嫌なのじゃ……リゼのたまに持ってくるDレーションはもっとこりごりなのじゃ……」
 「飢え死にしそうになっても次から持ってこないぞ」その隣に座るリゼ、革装に(月エルフの血を示す)青紫の髪を房でまとめたリゼは、オラクルにはそう返しながらも、少々予想外だったその言葉に戸惑った。さすがに占いクッキーに比べれば、Dレーションの軍用チョコレートバーは、オラクルには喜ばれているとばかり思っていたのだ。
 「滅多に此処に来られるわけではない」口を開いたのがアルテウス、リゼとオラクルと共に車座になって石床に座っている巨大な男だった。これもギリシア風の、こちらは簡素な木綿のローブとサンダルという姿で、運んできた物資の大きな網籠が多数と、ついでに小さな丸盾と短槍が横に置かれている。
 「この”運命の大迷宮”の迷宮探検家らは、占いの焼菓子やリゼの軍用糧食よりも、遥かに酷い物を食わざるを得ぬことがほとんどだ。それすら、何かを食べられる時に限ってのことだ。食べられることに感謝しておかねばならぬ」アルテウスは深い声で、オラクルを見下ろして言った。「迷宮内の物資は限られている。それが理解できねば、我らの運んでくる補給の貴重さ、すなわち、《祭界山》の主らが、このデルファイに、ひいてはそなた自身について配慮を欠さずにおること、その有難みが真に理解できているとはいえぬ」
 「ううむむぅ……」オラクルは口を尖らせて、唸り声(幼い声なので、壊れた笛のようだった)のようなものを発しつつも、アルテウスの言葉に神妙に頷いた。
 今、かれら三人は、デルファイの神託所と同じ階層ではあるが、聖域の隣の部屋(地下室だが)の、迷宮の石床の上にじかに食物を囲んで車座になっていた。この三人の中で、リゼは、普段は迷宮探検家としてデルファイを訪れることはあったが(その際、オラクルにDレーションを差し入れしていた)今回は、《祭界山》次元界の英雄、アルテウスが、《祭界山》の諸神や主の使命でデルファイに物資を運ぶ、その使いを手伝っていた。なぜリゼが手伝うのかといえば、リゼと様々な貸し借りや因縁、早い話が腐れ縁のある大魔法使マールから依頼された探索行のひとつであり、そして、突き詰めるとその原因は、おそらくその魔法使マールと《祭界山》の支配者らとの間の、これもややこしい貸し借りや因縁が原因である。
 デルファイの神託所に常に住むこのオラクルも、元は《祭界山(オリュンポス・プレイン)》の出身であるという。”大迷宮”のオラクルについては、彼女は『人間』であると主張する者もいたが、そのただの人間とやらが、このオラクルのように5割もの魔法抵抗力(マジック・レジスタンス)を有しているわけがない。それはリゼにも長年の疑問だったが、アルテウスと同行してこの輸送の仕事を何度かするうちに、どうやらこのオラクルも、アルテウスと同族の《祭界山》出身の天上種人間(セレスチャル・ヒューマン)であることが何となく察せられてきた。が、セレスチャル・ヒューマンといえば、(それこそアルテウスのように)例外なく男女ともに長身、かつ威厳と生命力にあふれた者であるが、このオラクルは、偉ぶりはともかく、”長身”やら、まして”威厳”にはほど遠かった。
 白いゆるやかな、裾の長いキトンを羽織ったデルファイのオラクルは、つややかな見事な長い黒髪と、涼しげな眉目の造りを持ち、あと20歳、あるいはせめて10歳も経れば、賢者、巫女、預言者に相応しい荘厳さと美しさを兼ね備えた姿になると、充分に信じさせる造形ではあった。しかし、天上種の人間(セレスチャル・ヒューマン)が、人間年齢で相応の歳をとるには(《主物質界》の年月に換算してだが)どれくらいの時間がかかるのか、こんなだぶだぶのキトンを着ているというより逆に着られているこまっしゃくれが、そのくらいまともに成長するまで、いったいこれから何年かかるのか、リゼには見当もつかなかった。オラクルは、言葉遣いや口調も、他のセレスチャル・ヒューマンにも共通する古風なものだったが、これはそもそもが大柄で年経た《祭界山》の住人の人間や諸神の体躯による発声法(例えば、長身で頑強な筋肉や骨格)に向いているらしく、オラクルはその言葉遣いを常にかなり無理をして発しており、かえって舌足らずを際立たせていた。
 この神託所のオラクルと、甲斐甲斐しく神託所に荷物を運んでいるアルテウスの関係、ひいては、アルテウスの役割、立ち位置、オリュンポスの支配者たちとオラクルとの関係も、リゼはよく知らなかった。しかし、このオラクルのアルテウスへの振舞は、少なくともオラクル自身の認識としては、故郷の食料を運んできている嬉しい存在、それ以上のものはあるのかもしれなかった。外方諸次元界(アウター・プレインズ)の住人たちが、その支配者らを通じて複雑な血縁にあるのは常だが、《祭界山》であればなおさらだ……
 アルテウスがオラクルに、出身地の《祭界山》から届ける荷物には本来の神託所の設備に用いる呪具や、単なるオラクルの生活の助けの服飾その他、多岐にわたったが、オラクルは毎度食料にしか興味がないようだった。そこはリゼも同感であった。オリーブと葡萄の香りの豊穣な味わいは《上方次元界》の産物独特のものだった。ろくなものを食べられない(ただし、Dレーションも嫌いではない)迷宮探検家のリゼにもそう感じられるのだから、これが”故郷の味”であるオラクルやアルテウスならなおのことだろう。
 「いつもこういうものが食える《祭界山》に、帰りたいとか思うのか」リゼはオラクルを見下ろして言った。
 「いやそれはまっぴらごめんじゃな」オラクルは即答した。「あの次元界(プレイン)の神々やら他のろくでなしの支配者やら、よっぱらったような住人どもの徘徊する中で過ごすのはもうごめんじゃ。いや、祭界山人というても、無論アルテウスは別じゃがのう……」
 オラクルは肩をすくめ、
 「うう、まあよい。今は味わうのじゃ。こんなときだけでも、不味い飯だの酔っぱらった住人どものことなど忘れていたいのじゃ。そこはわかってくれるじゃろうアルテウスも」オラクルは大きなオレンジの果実を小さな両掌一杯に掴み、「至福のときじゃ……この殺伐とした大迷宮で最大のやすらぎじゃあ……」
 ともあれ、感極まったオラクルは、大口をあけて果実にかぶりつこうとした。その瞬間だった。
 耳をつんざく破砕音が数度、階層(ダンジョンレベル)の空間一杯に響き渡った。明らかに神託所の方向だった。



 「なにごとじゃあ!!」オラクルがオレンジの皮をわしづかみにしたまま、大股で駆け出した。
 アルテウスはオラクルについてゆこうと立ち上がったが、そこでリゼを見下ろした。座ったまま、平然、というよりは、うんざりしたリゼの表情に気づいたようだった。
 「こうなることがわかっていたかのような顔だ」アルテウスはリゼに言った。「デルファイの予言者以上に」
 「いや予言というわけじゃないがいわば予感だ」リゼは脱力したような目のまま言った。「こんな迷宮探検家の日々、もとい、大魔法使の使い走りとかしてるとだな……」
 「次からは頼りにする」アルテウスは意味深長なことを言って、オラクルの後についてある言っていった。
 デルファイの神託所、荘重な石の柱の立ち並ぶ広間には、中央に神託者のための高い椅子(大人も座ると下に足がつかないが、ここオラクルの場合は、てっぺんだけによじ昇る形とならざるを得ない)が据えられ、清純な泉にその四方を囲まれている。椅子も柱も、人間やドワーフではなく、おそらく《祭界山》の彫刻家の手によるものである。
 「なっ 何をするじゃァーーッ!! ゆるさんッ!!」
 オラクルが壮絶な叫び声をあげるのが聞こえた。ただでさえオラクルの小柄な体型には適さず絶叫にはなおも向いていない古風な言語では、オラクルは台詞を完全に噛んでいた。
 何をされたかは一目瞭然だった。神託所の四隅のうち三か所には、ケンタウロスの石像が立っている。残り一か所にもあったはずだった。が、今は、その広間の隅には粉々の石の破片が大量に散らばっている。粉砕された石像のそばには、”つるはし”が転がっていた。そして、その破片の石の中を、はいつくばって一心に探っている人物がいた。
 その人物は、オラクルの叫び声を聞いても、何ら気にする様子も警戒する様子さえなく、床の破片の中を探し続けていた。しかし、リゼとアルテウスが──いかにもな革装の女盗賊と大男が──デルファイの神託所に入ってくるのを認めると、さすがに立ち上がった。
 石の破片の中を探していたその人物は、鎧兜で武装した相当に長身の女性で、身長ならリゼより遥かに高く、アルテウスの肩近くまで届く。量のとても多い、銀灰色に近い茶の髪を、兜のうしろから房状にまとめて出している。かなり精緻な細工の北方内陸(ガーリア)風の丸盾と手槍を背負っているが、一方で、鎧は粗末な鉄環のかたびらだった。だいたいこのような様式のひとそろいの装備(と、おそらくは奪った等ではなく本来の持ち主とわかる体躯や髪の色の特徴)を見ればわかる。”大迷宮”の迷宮探検家の一種、ワルキューレである。
 ”ワルキューレ”といえば、《英雄界(イズガード)》の神々の直接の血縁の、神性を持った使者らの中にもそう呼ばれる者がいるが、”運命の大迷宮”に現れる者は(少なくともその大半は)本当にそれらの使者ではない。近い並行世界(ワールド)や次元界(プレイン)、それらの神々の司祭の一種や、神聖代行戦士(ディバインチャンピオン)らが、ヴァルキュリアなどと通称されていることは、全く珍しくない。”運命の大迷宮”に出現するワルキューレと呼ばれる者らはおそらく殆どがそういう類の者であり、この者も、どこかの次元界(プレイン)から来た迷宮探検家だろう。
 「なぜ壊たし!」オラクルがワルキューレに向かって叫んだが、また台詞を噛んだ。
 「魔法書があるかと思ったのですが」ワルキューレが、そのオラクルの剣幕に戸惑ったように言った。そもそも、自分の迷宮内の当然の行動が、そこまで誰かの怒りを呼んでいること自体を実感できていない様子だった。「”大迷宮”では、像には魔法書が入っているものでは……」





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