イェンダーの徴: アクエイターの世界








 3

 しかしアルテウスは、小島の聖域の削られた岩の上を、そのネフタナにつかつかと歩み寄っていった。さきほど槍を捨てて、素手のままだった。
 そしてその素手の拳を固め、そのネフタナの顔面に鉄拳を叩き込んだ。
 女水精はアルテウスが歩み寄ってきても一歩も動きもしなかったし、その拳をよけもしなかった。強大な魔力のある武器でしか傷つかない自分に影響があるとは思いもしない以上は当然だった。実のところ、うしろで見ていたリゼの方も、アルテウスが素手で殴ったりしたのは、その場任せの激情で行動するオリュンポス人の単なる衝動、単なる腹いせなのかと思ったほどだった。
 が、ネフタナの顔面の真ん中に、アルテウスの固められた拳が文字通り深々とめり込んだ。
 鼻面、軟骨とその周囲の硬骨が音を立てて砕けた。巨象をも撲殺する《祭界山》の英雄の鉄拳が、なよやかな若い娘の顔面に直撃すればそうなるという、予想に全くたぐわぬ光景がそこに生じた。繊細な芸術家が長年丹精こめて作り上げた調度品であるかのような水精の娘の顔面は、文字通りぐしゃぐしゃに叩き壊された。ネフタナは膨大な血を噴出させたまま、まっすぐうしろに吹っ飛んだ。
 遥か遠くに着地、または落下すると思うところだったが、着地する場所がなかった。この不安定な《塩の準元素界(クァジ・エレメンタル・プレイン・オブ・ソルト)》のさらに奥地は、内方次元界(インナー・プレイン)そのものに定着して収まる次元的位置がないので、さきにリゼが認めたように、聖域の向こうの上空は次元界そのものが途切れて断層となっていた。ネフタナは両手両足を振り回しながらも、当然ながら何も掴まるものも動きを留めてくれるものもなく、その”内方次元界の埒外”である断層の向こう、虚空そのものと見える中へと果てしなく飛翔していき、やがて見えなくなった。
 リゼは(下におちた皮装の服をなんとか身体に巻きつけて)ネフタナが飛んで行った方を見上げた。それから、アルテウスを振り向いた。
 「”強力な魔法の武器”でしか傷つかない相手が、”拳”で傷つくのか」
 「傷つけられない者”同士”は、互いに傷つけることができる」アルテウスはリゼに短く答えた。「刀槍の通らないという獅子や水魔や魔神を、素手で絞め殺した半神英雄や王や『魔太子』の物語は聞いているだろう」
 「なるほど」
 例えば、錬金術銀でないと傷つかない者、人狼などがいる。それを傷つける手段は(傷を付けずに打倒する手段を除くと)錬金術銀の武器を持ってくるか、もうひとつは、同じ”錬金術銀でないと傷つかない”という特性を有する者、《九層地獄》の悪鬼(デヴィル)などが、その者自身の肉体で攻撃する、というものだ。
 アルテウスは彼自身、《祭界山(オリュンポス)》出身の天上種人間(セレスチャル・ヒューマン)であり、彼自身が次元界来訪者で、当然、一定以上の魔力を帯びた武器でないと傷つかない者である。単にアルテウスがネフタナと、水精と同等かそれ以上の損害減少を有していた、というだけの話だった。
 いや──ネフタナ自身が仮に、自称していたように実際に神のはしくれであったとしても、このアルテウスも、あるいは遡ればオリュンポスの神々のいずれかの末裔であり、同等以上の神霊としての傷つけられない能力を有していた、ということなのだろうか? ……あるいは、そのいずれかの《祭界山》の神との血縁が、勢力の歯車以外に、アルテウス自身にとっての(リゼの魔法使マールへのそれと同様の)こんな場所を訪れて戦うための動機となっている、義理や道義なのかもしれなかった。
 「”骨も金属の一種”だとかなんとかの知識がいくらあったって、”この多元宇宙の鉄則”を知らなければ、あんな目にあう、ってことか……」リゼは言って、身震いした。リゼもよくは知らない。そして、それらを知るのが決して容易ではないこと、さきにアルテウスが述べた例のように、真相も、それを知るすべも、至る所に示されているにも関わらず、あのネフタナのように、『誤った信じ方』に飛びつく者がたやすく出る、その諸世界の現状が、いかにも恐ろしいことに思えた。
 リゼは再び、聖域の床よりも外の領域、次元界の埒外の断層の方を見上げた。「……あいつはこれからどうなるんだろう」
 「レブマやその他の世界の出身であれば、《塩の準元素界》その他の違う次元界で死ねば、生まれた並行世界(ワールド)の、出身の次元界(プレイン)で再構成される」アルテウスは言った。「が、あの者は死んではおらぬ。かの者自身にとってはあいにくなことだが。内方次元界よりも外、《アストラル中継界》に飛ばされれば、永遠に傷が癒えることも悪化することもなく、漂い続けるのみだ。そこから、故郷の次元界や、その他のいずこへと辿り着けるか、すなわち《アストラル中継界》をどれほどに移動できるかは、その者の”想像力”次第だ」
 「想像力がなければ、どこにも辿り着けず漂ったままか」リゼは断層に目をこらし、「あるのかな、あいつに──」
 ネフタナが”自分を傷つける可能性のあるもの”を想像することができなかった以上、それは疑わしいのかもしれなかった。その程度の者が、そうした命運に辿り着いたのも、また、恐ろしい帰結だった。



 アルテウスとリゼは、聖域の中心にある巨大な木製の祭壇を調べた。”水ごけの怪物”や、さきほどネフタナがふるっていた力によって劣化しないようにか、木材、それも川辺の樹木の蔦のようなもので、一見ぞんざいに組んであった。
 表面には、一見目立たないが、螺旋か羊歯のようにも見えるのたくるような紋様が刻まれている。リゼにもわかるが、”イェンダーの徴”、並行世界と空間同士の関係を記述する、力ある徴だった。アルテウスは小さな石の碑板のようなもの(持ち歩いても破損しにくいように、石の書物なのだろうか)を幾つか取り出すと、見比べた。
 「”顔なき王”、『粘体の公王』の領域に続いている」
 おそらくは《祭界山》の賢者(オラクル)が事前に記した碑板に書いてあったということは、この事件の背後にいるデーモン・プリンスについて、あらかじめ幾つかのデーモン・プリンスの候補があったに違いなかった。
 さきにアルテウスが述べていたように、この聖域が公王と繋がっている、というよりも、”イェンダーの徴”により、因果が繋がっている、といった方がよさそうだった。おそらく”水ごけの怪物”を作り出し、ここから他の並行世界、次元界に送り込む仕掛けも、そうして多元宇宙に無秩序を広めて、それに貢献した自らの力が増すようにしたのも、全て『粘体の公王』のようだった。”運命の大迷宮”の存在する並行世界への影響力を特に強め、大迷宮の中に拠点を築けるほどに勢力を増大できたのは、そのために違いない。
 結局、今しがたのネフタナは、この祭壇を守るために、『粘体の公王』によって”配置”されていたにすぎない。この祭壇に近づいて公王の計画に干渉するような、取るに足らない者(それも、こんな《塩の準元素界》などという辺鄙な次元界に、多くは偶然の結果で迷いこむような者)を追い払ったり、監視の番兵として配置されていたのだろう。公王からなんらかの”力”や”権力”のたぐいを授かっていたかどうかさえも疑わしい。さきほどのネフタナの台詞から察するに、相当に大仰な地位に君臨している、強大な力を手にしていると信じながら、その実はただの案山子のような役務を、嬉々として自分から進んで遂行していたに過ぎなかった。
 木製の祭壇は、リゼが”ごく初歩(イッツ・エレメンタリ)”な火炎元素の術によって焼却しようとしたが、”水”と”負のエネルギー”に大きく傾いたこの次元界では、リゼの弱々しい火炎の呪文などは、まるで発動する気配が無かった。結局、祭壇もアルテウスが(槍ではなく)拳を揮って、粉々に叩き壊した。
 ……その後も結局、多くの並行世界、特に”運命の大迷宮”のいくつかには、”水ごけの怪物(アクエイター)”の存在自体は残った。今でもそれらの大迷宮に行けば、”錆の怪物”ではなく、この小さなカバのような、”水ごけの怪物”の方に遭遇する。それは、この祭壇と『粘体の公王』の仕掛けについて、正式に解除する方法をとらなかったためだった(アルテウスが当初はネフタナに聞き出そうとしていたのがそれだが、今考えてみれば、ネフタナが知っていたともあまり考えられない話ではあった。ひいては、リゼやアルテウスの力で正式に解除する手段など、どのみち無かったのかもしれない)。
 そして、おそらくは、『粘体の公王』に操られて、様々な並行世界にアクエイターを送り込んでいる者や場所は、ネフタナやこの祭壇の他にも存在するのかもしれない。もはやこの怪物をそれらの並行世界(ワールド)から根絶することはできなくなっていた。何かを壊すことで不当に利益を得ていた者を妨げたところで、他の者に利益が戻ってくるわけでも、壊されたものが返ってくるわけでもない。
 しかし少なくとも、このネフタナの祭壇から直接に送り込まれていた幾つかの並行世界について言えば、”徴”の祭壇を破壊したことで、水ごけの怪物と、『粘体の公王』とが”徴”によって結び付けられていた因果は無くなった。この祭壇や怪物の活動から、『粘体の公王』に利益が及ぶことはない。
 である以上は、いまや、”水ごけの怪物”であろうが、”錆の怪物”であろうが、同じ能力や規模を持った──さまざまな並行世界(ワールド)にごく普通に存在する、自然の怪物に過ぎない。リゼに言わせれば、それを”普通”だとか”自然”というのもまるでおかしな話なのだが──ともかくも、そんな奇妙な怪物も、そんなものがいる奇妙な世界も、この多元宇宙においては、ごくありふれたものに過ぎないのだ。





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