イェンダーの徴: アクエイターの世界
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夜間とも曇天とも霧ともつかない重たい闇が、リゼ達の頭上にかかっている。じっとりとした大気の下は、かすかに刺激臭と辛みのある水流が、わずかな動きを伴ってひどく重く足にまとわりついている。その水自体は無色なのかもしれないが、空の色なり、深みなり、その水の下の足場なりの性質のためか、水面の反射すら見当たらない一面の漆黒に見える。足場がつく部分は、凹凸の激しい分厚い水苔のようなものが積層しているのだとわかる。
そして、おそらく足のつかないほどの深い箇所の水の深みの中を、小さめの牛馬くらいと思われる獣の影が、しばしばゆっくりと通り抜けていった。”虎の鉤爪のリゼ”──月エルフの青紫髪の女盗賊──は、その通り抜ける影をしばらくうんざりして眺めてから、やがて、先導して前を歩く人物の背中に目を戻した。
ここは、《塩の準元素界(クァジ・エレメンタル・プレイン・オブ・ソルト)》、すなわち《水の元素界》と《負物質界》の狭間にある次元界、少なくとも、そこに近い領域である。リゼ達が今歩いている場所は、かなり《水の元素界(トゥルー・エレメンタル・プレイン・オブ・ウォーター》に近い側で(負物質界に近い側や、塩の準元素界の真ん中の”塩の根源”なる領域は、少なくとも定命の物が行動するにはおおよそ向いていない)重たい塩水も、海水よりもいくぶんだけ濃いといったものだ。それでも充分に、全体を覆う陰鬱さが、《負物質界(ネガティブ・マテリアル・プレイン)》の影響を思わせる。
そもそも《塩の準元素界》は、次元界(プレイン)としての存在そのものが非常に不安定であり、”次元的な位置”もうつろっている。次元界を専門に探求する賢者や魔術師らですら、存在自体を知らなかったり、理論上の存在にすぎない、水と負の狭間には”塩の準元素”は生じるが、純粋なその準元素だけが渦巻く”次元界”としては存在しない、等と主張されていたりもする。現に、今リゼ達がいるこの沼地も、不安定な固形と液体、物質と非物質の狭間、といった空間だった。
そんな次元界、そんな場所を今現に歩いている、という事実、その奇怪さの前には、この陰鬱極まりない風景と水中のかすかな足場を一歩一歩探りながら進んでゆく辛さともどかしさですら、忘れそうなほど些細に思えてくる。
真横の黒い水の中をずんぐりした怪物が、ほとんどが水中だがこれも水苔に覆われた背中をわずかに上に出しながら通過してゆくのを、リゼはすでに当たり前の光景のように横目で見ていった。が、なぜ自分達がこんな次元界(プレイン)を進んでいるのか、その原因があの獣ども、アクエイター(水ごけの怪物)なのだ。
かなり多くの並行世界(ワールド)、それもその多くは非常に”影の濃い”世界で、”運命の大迷宮”が存在しているような世界もやはり多く含まれているが、それらの並行世界には”錆の怪物”と呼ばれる生物が存在している。あらゆる金属を激しく酸化させ、錆にするという異常な習性と能力の生物だが、単なる”異形”であり、魔獣やら人造ではなく、つまりその世界では、歪んだ創造や異常な魔法(例えばねじまがった性質の神や魔術師の仕業)などではなく、その世界においては通常の節理の産物である。
が、同様のいくつかの並行世界では、それらの錆の怪物は、ある時期から次第に見かけなくなった。そのかわりに、”水ごけの怪物”という、この小型の海獣のような生物が生息する並行世界が確認されるようになった。最初から錆の怪物が位置を占めるべき生物相をこの生物が占めているという世界もあれば、一方で、それまでの歴史では錆の怪物が存在していたのに、突然この海獣に置き換わったような世界もある。錆の怪物(被甲目の哺乳類が飛虫を思わせる手足の付き方をしているような異形)と水ごけの怪物(小型の河馬のような海獣)では、外観もおそらく進化の形態も似ても似つかない。が、大きさは概ね同じで、生態と習性と能力は寸分たがわず同じである。
その現象の不審を探るため、不穏な状況と判明すれば阻止するため、リゼはこの《塩の準元素界》に遣わされていたのだった。……いや、実際はリゼは付き添いにすぎず、実際に事情を詳しく知っているのも、主に阻止のために《祭界山》から遣わされたのも、目の前を歩く英雄、アルテウスだ。
細かい事情や経緯、どういう事情でこの次元界が”水ごけの怪物”どもの根源と判明したのかは、リゼにもわからない。ここにリゼを送り込んだ魔法使マールは、《祭界山(オリュンポス・プレイン)》の賢者(オラクル)らと偶然同じことを調べていることがわかった、と言っていた。ともかくもリゼは自らの後援者(パトロン)とも導師(メンター)ともつかぬ腐れ縁、魔法使マールの代理、代行、あるいは使い走りとして、アルテウスと同行していた。
”虎の鉤爪のリゼ”は、目の前を歩いてゆくアルテウスの背中と、その力強い迷いもない足取りを見つめた。迷いもなしに先導しているからには、この英雄は自分よりは事情を知っているであると信じたい。……アルテウスは、《祭界山》の諸神の一族や使徒の類ではなく、タイタン(巨神族)やエンピリオン(神性の落胤)の類でもなく、単なる、そこの出身の人間(セレスチャル・ヒューマン)のひとりであるという。もっとも、《祭界山》のそれらの存在の奔放な性質からは、それらの血のいくばくかが混ざっていても不思議はなさそうだった。アルテウスの、鋼を編んだ筋肉というよりは、石を削り磨き上げたかのような身体は、《上方諸次元界(アッパー・プレインズ)》の住人に共通している。大柄で鍛え上げられた身体ではあるが、リゼの見たことのある並外れた巨躯の英雄戦士らに比べて、驚くほど長身というわけでも、屈強重厚な肉体というわけでもない。それでも、威容や質量とは別種の、主物質界の生物にはない存在感がある。アルコンやエラドリンのように、身体が実際に光や霊波(オーラ)を放っているわけでも、見るからに活力がみなぎっているというわけでもないが、強いて言えば、芸術品から受ける”印象”や”感銘”のような、表現しがたい存在感である。
「なあ、確認するけど」実際のところ、リゼはこの次元界に突入するよりも前、準備を整えている際にアルテウスに尋ねたことがあった。「”錆の怪物”だとか似たようなのは、いろんな世界にいる、つまり『化け物が金属を劣化させる』ってのは、いろんな並行世界では自然の現象で起こってる、ってことだろう。いや、自然ってのは少し変だけどさ。自然でない幻想化け物も幻想世界には当たり前にいるみたいに、とにかく、いろんな世界では、その錆の怪物や起こす現象が、当たり前の現象ってことだ。しかもそれが、規模も役割も同じ”水ごけの怪物”に変わっていて、そもそも何が問題なんだ」
「同じだからこそだ」英雄は、大音声でも輝く美声でもないが、どこかがその身体と同様に印象的な深い声で応えた。「同じ役割の怪物であれば、何ゆえ入れ替える必要がある。何かの事情を疑わなくてはならぬ、ということだ」
「そりゃ神経質というか過剰反応というか、陰謀を疑いすぎじゃないのか。並行世界の因果なんて、確率の変動で、ちょっとした偶然で変わっていくもんだろう」
魔法使マールによると、ある並行世界(ワールド)で蝶が羽ばたいた影響で、その世界でも隣接した世界でも何も起こらなかったとしても、”徴”を──並行世界同士の繋がりを記述する仕組みを──何反復も辿った、その影響が包含される無数の並行世界では、いずれも竜巻の天変地異が生じるほどの影響が生じている、そんな膨大な影響が膨大な世界で生じている。そんなことをリゼは聞いたことがあった。
「偶然に過ぎないなら、何も問題はない」アルテウスは応えて言った。「何も問題がなく安全であるならば、その安全を確かめねばならぬ」
「私ぁ、《祭界山(オリュンポス・プレイン)》の神だの人だのは、些末事にはこだわらない、もっと豪快なんだと思ってたよ」リゼは何かうんざりしたように言った。
「《塩の準元素界》、つまり、《水の元素界》の他に、《負物質界(ネガティブ・マテリアル・プレイン》に近い領域ということは、そこに大がかりな仕掛けを行うには、《下方諸次元界(ロウワー・プレインズ)》のうちのいずれかの諸力の干渉があるのではないか」アルテウスは、リゼの疑問に答えるかのように付け加えた。「《祭界山》の長老やデルファイの賢者(オラクル)らは、そう考えている」
「つまり、悪(イービル)の神性か、もっとひどいのはアーク・フィーンドの類が関わってるってことか。クロムとセトの名にかけて、ぞっとしないな」
リゼは水たまりを横切ったものの背中を眺めた。これが、悪神や大悪魔の手によるとでもいうのだろうか。こんな気の抜ける生き物たちが。
同じ怪物を、”運命の大迷宮”のうちひとつ、陸上かつもっと近くで見たことがあった。この背中と大きさからは、そのときの記憶と同じ生物とは思われるのだが、全体的な意匠としてはカバに似ているように見えるが、他の並行世界の”錆の怪物”と同様に小型の四足獣、子牛くらいの大きさしかない。そして、全身が水ごけで覆われている。見かけだけでもぎょっとするような(アルマジロのような体躯の飛び虫のような)錆の怪物と比べても、相当に無害な生物で、おそらく(金属以外には)何かを捕食することも他の生物を襲うこともない。ただし、これも”錆の怪物”と同様に、多量の金属、例えば鎧は、近づいただけで劣化する。明らかに魔法的な性質を備えていた。
もっとも、あの”大迷宮”にいた水ごけの怪物は、錆の怪物よりもかなり力が弱く、鎧以外にこちらが攻撃した武器や、その他の持ち物や貨幣が錆びた、という報告はない。この”金属を劣化させること”から、他の四足獣の餌のような活動する力を得ていると考えられるのだが──この鈍重な体躯は、少なくとも相当な量の栄養が必要と思われるが、それで充分なのだろうか。もっとも、見かけでわかるものではない。なにしろこれより巨大な本物のカバも、ほぼ植物のみから栄養をとっているのだ。それにしても、なぜ海水に住んでいるのだろう。”水ごけ”にせよ”カバ”にせよ、むしろ海よりも淡水を思い出させる──リゼはとりとめもなく考えた。
アクエイター(水ごけの怪物)が近付くだけで金属が劣化するので、リゼはいつもの革装なのは同じだが、闘剣(グラディウス)と短刀(ダーク)のかわりに、骨でできた短めの剣とこれも骨のナイフを持っている。前を歩くアルテウスも、革鎧で、金属の兜や盾は身に着けておらず、やはり穂先に削った牙か何かをくくりつけた槍を持っている。多くの並行世界での”錆の怪物”(その錆びる力の強さは世界によって違う)とは異なり、アクエイターは鎧しか劣化させた例はないというが、なにしろこれだけ大量にあたりを泳ぎ回っているのだ。それ以前に《塩の準元素界》に突入したというだけで、持ち物が錆びる理由としては充分すぎるほどだ。
一応、リゼの骨の剣とナイフには複雑な模様が刻まれているが、異次元界の来訪者の護りを貫通するために、魔法使マールがにわかで施した呪文だった。マールが用意した以上は、なかなかこれらは武器としては信頼がおけるのだろうが、リゼはひどく不安である。武器の金属の感触や重みの全てがないと落ち着かないのだ(リゼに入っている月(ムーン)エルフの血は、ただの主物質界の金属に対する拒否感まではその性情にもたらしてはいなかった)。
先に立って歩くアルテウスは、あらかじめ目的の場所の方向を知っているのだろうか、──進ほどに、明らかにアクエイターの泳ぐ姿とすれ違う頻度は増えてきていた。そして、水ごけの怪物は”こっちに向かってくる”方向に泳ぐものが増えている。つまり、──この獣の”発生源”に明らかに近づいているということだ。
やがて見えてきたのは、黒い水の中から隆起している、これも黒ずんだ岩でできた小島だった。苔に覆われ、ごつごつした自然の岩でできているように見えるが、よく見ると正確な正方形に整えられ、上も平坦で、舞台か神殿か何かのように人工的に形作られているのがわかる。立ってしばらく歩けるほどの広さも、丁度それくらいだった。さらに、中心近くには、黒い木で組まれた祭壇のようなものが見えてきた。
その聖域のさらに奥の上空の暗雲は激しく渦を巻き、各所に裂け目ができている。……リゼは目をこらした。雲間に見えるのは次元界の裂け目だが、その色彩は《イセリアル中継界》ではなく《アストラル中継界》のものだった。この《塩の準次元界》は、内方次元界(インナー・プレイン)内にも安定して存在できないが、この聖域のある場所はそれどころか、外方次元界(アウター・プレイン)にはみ出しかけているのだ。聖域の単に位置のせいか、それとも何らかの力のせいか。
その手前で待ち受けていたのは、長衣で杖を持った──枝分かれした杖の頭部は、三又の鉾を思わせるが、どちらかというと単にその鉾を図案化した杖の意匠に過ぎない──長身の女だった。体格や、その見た目以上の存在感については、どこかアルテウスと同様のものを思わせるところがあるが、衣装やそれ以外の姿からは、どうも同族には見えない。薄い水色の、癖のないまっすぐな髪を伸ばしており、長衣もほぼ同じ色で、髪と同化するような、ゆったりと流れる線を身体に沿わせている。
「ようこそ、潮の狭間の最も深みへ」女は若い声で言って、アルテウスとリゼに笑み掛けた。「わたくしは女神ネプチューン。海王星の主、すべての深淵と潮流の支配者」
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