煉獄の行進
14
アスタはそのカイトを見下ろした。
「オレにも、何かできることが……」カイトは言おうとした。
「だまれ!」アスタが叫んだ。「お前なんか何もできない!」
カイトは立ち尽くした。
「さっき言ったろう。お前には何の存在価値もない。それどころか、これ以上余計な犠牲を増やされてたまるか。自分が何もできないどころか、行動すればするほど犠牲まで増やすことがわかっているだろう。『高レベル冒険者様』の自惚れやら自己満足やらにこれ以上つきあわされてたまるか! お前はさっさとモリバントにでも辺境の地にでも、元の世界にでも逃げ帰っていろ」
アスタは言ってから、振り向きもせずに立ち去った。
「……あのアスタの言うことを、全部真に受ける必要はないんじゃないの」やがて、アリスがカイトに低く言った。「それまでの体験のためなんでしょうけど、あの男はいささか性根が屈折してるとしか思えないわ。……もっとも、あんたも今まで通り目も耳も塞いで何もなかったかのように、周りが悪いだけだ、運が悪かっただけだ、で済む話とも思えないけど」
パラニアが、そのアリスを振り返って言った。「……さきに打ち合わせた通りだ。おまえたちは北の山地に逃げろ。目印で落ち合おう。北の山道の、『反攻撃の洞窟』と『モリバント』の方向に続く分かれ道に、西方国(ウェスターネス)の人々が残した道標がある。その碑の近くに潜んでいろ。そちらの方向に行く隊商もあるだろうが、同行するよりは、散って行った方が互いの生存率は高い。逃げている間か潜んでいる間に何かあれば、物資は惜しむな」
「わかったわ」アリスは紺色の外套の下から、革か何かの筒状のものを取り出した。中には羊皮紙を筒に丸めたものが入っていた。アリスはラベルを確かめてから、再度巻いて筒に、外套に戻した。マリアは、肩に掛けている料理道具用の肩掛け鞄の蓋を開いてのぞきこんだ。その中には、道具や材料の包みの奥に、掌に何本も入るくらいの、様々な色の小さな薬瓶が数本入っていた。
「カイト、おまえはもう、わしや双子と同行する必要はない」
パラニアは、まだ立ち尽くしているカイトを振り返って言った。
「自分で行く道を選ぶがいい。わしと双子は合流した後、さらに遠回りしてモリバントを目指すが、もうおまえを確実にモリバントまで届けられるとはいえん。他の、モリバントに向かう一隊と選んで、共に行く手もある。……とはいえ、どの一隊なら他より安全かという判断はまったくできんがな」
パラニアはそう言って、荷物をまとめはじめた。
「カイトさん……」
マリアが、うなだれているカイトを振り向いて見つめたが、やがてアリスに促され、退去する隊商を手伝いに走っていった。
パラニアも、荷物を背負うと、腰の剣帯の位置を直し、立ち去ろうとした。
カイトは顔を上げると、慌てたように、そのパラニアを呼び止めた。
「な、なあ……前に、いや今も、あいつが、アスタが言ってたことだけど」カイトは言った。「冥王軍は、ここ以外の世界にもやってくるって……他の世界も全部、いずれ冥王軍に、あのオークやオーガや幽鬼たちに攻め込まれるって、本当のことなのか? オレの世界にも、今ここの野営地に起こってるのと同じように……」
パラニアは振り向いた。「無論その通りだ。ここから元の世界に帰っても、それは同じことだぞ。モリバントのトランプの塔から、元の世界に帰れるということは、冥王軍にもかれらの軍にも、いくらでも同じ手段、大軍でも何でもおまえの元の世界に送り込む手段がある、ということだ。説明するまでもないと思っていたが」
カイトがはじめて聞いた時には到底信じられないような驚愕だったが、パラニアには驚いた様子も、否定する様子も、何ら疑問がある様子すらもなかった。
「そんなことは、とっくに知った上で元の世界に帰ろうとしているのだと思っとったよ」パラニアは言ってから、剣帯に手をかけて足早に立ち去った。
カイトの足元が激しく震えた。いや、周囲の世界がぐらつき、大きな波のように揺り動くかのようだった。この世界で何度か感じたことのある、自分の確かに立っていると思っている世界そのものがゆらめくような感覚だった。しかし、たった今気づいた。それは、周りが揺らいでいるのではなかった。カイトが頑として確実な足場だと信じ込もうとしていたもの、そしてカイト自身が、この”鉄獄”の世界、そしてこの多元宇宙の他の世界をとりまく”実体”の中に晒され、嵐の中の羽根、波間の木の葉のように激しく揺さぶられる儚いものだと示しているに過ぎなかったのだ。
騒ぎが大きくなり、樹エルフの馬車の周りからは皆立ち去ってからも、カイトは放心したようにしばらくそこに立ち尽くしていた。が、そこから双子の少女らと合流することもせず、思い出したように、最初にアスタに出会った、イークの馬車の方に向かった。
あのように言われても、アスタの隣で戦って証明したかった。自分は戦えないわけではなく、自分のせいでもないこと、……いや、もうそんなことはどちらも、もう証明などはできないことはわかっていた。ただ、その他の何でもいい、何かができることを証明しなければ。
アスタに、あんな男に証明してなんになる? アリスも言っていたように、何も出来なかった自分を責め続けた結果、歪んだ男にすぎない。一体何をどうやって証明する? それも見当もつかなかった。それでも、カイトは向かうしかなかった。
イークの馬車に辿り着いた時には、既に喧噪や、オークや他の隊商の他の種族らの怒号が遠近に響いていた。カイトは馬車に駆け寄った。
小雨の振り続ける中、すでに数人のイークたち、以前にアスタと共に焚火を囲んでいた面々が、血だまりの中に倒れていた。……カイトは、『高レベル冒険者』たちの何の戦果もなかったあの突撃の、自分達の行動の結果で生じた、その光景を黙って見下ろした。
カイトが立ち尽くしていると、馬車からアスタが歩みだし、カイトの方に気付いた。
「お前か」アスタはカイトを見ると、カイトがまだ野営地に残っていることを、先にかけた言葉のように咎めたりするでもなく、なかば上の空のように言った。
アスタは一度足元のイークらの死体に目をやり、目をそらし、
「これを思い出して、取りに来たんだ」アスタは数本の巻物の束を持っていた。羊皮紙らしき紙を巻いたものだが、いくつかは封をしていなかったり、急いで束ねて持ってきたようだった。「巻物は魔術の心得の無い者でも、なんらかの読み書きさえできれば、誰でも発動できる。『守りのルーンの巻物』だ。どんな相手でも、少しは足止めできる。隊商の誰かが逃げる時、少しは足しにはなるかもしれない──」
が、そのとき頭上に木々がへし折れる、何か巨大なものが動く音がした。その音に、カイトとアスタは同時に見上げた。しかし、その他に何も行動する暇は無かった。
押し寄せた冥王軍の一体、さきにカイトも見かけた、石の棍棒を持ったオーガが、何か別のもの、おそらくは次々と飛んでくるエルフの矢を払いのけるために、無造作にその棍棒を振り回しながら駆け抜けていった。その石の棍棒が、振り回された拍子に、馬車のそばにあった石柱を、一撃のもとに微塵に粉砕した。その破片の衝突か衝撃か何かのせいか、カイトの身体はその場から芥子粒のようにはじけ飛んだ。そのまま、カイトの意識は暗転した。
──遠雷がとどろいた。雨の音が激しくなっており、炎の巻き起こす黒煙の音と臭気が強く、カイトはそれらのために目を覚ました。
自分はアスタに会い、それから弾き飛ばされ──いったいどれだけの時間が経ったのだろう。まだ騒ぎの音はするが、かなり遠くなっているように思える。あたりを見回した。あちこちの木が燃えているのが見えるが、それも激しくなった雨によりもう消え始めた頃のようだった。
カイトはふたたびイークの馬車の方に近づいた。馬車は激しく燃え上がり、豪雨の中に黒煙を巻き起こしていた。イークらの死体はまだそこにあり、まだ血も雨に完全に流されていなかった。馬車の近くにあった、西方国の建物の遺跡の一部と思われる、もともと古く脆かったと思われる石柱が、砕けて巨大な破片となって散らばっていた。一部は、燃える馬車を圧し潰していた。
そして馬車のかたわらに、アスタの姿があった。うつぶせになった身体の、包帯に覆われていた方の半身が見えていた。残りの、かつて無事だった半身の方は、砕けた石の塊の下敷きになり、落下した腐った果実のように完全に潰れ散っていた。
カイトは呆然として、アスタの死体に歩み寄った。
片手を上げて差し出すように、一本だけアスタのその手にまだ握られている巻物を、無意識にその手から抜き取った。ラベルには、緑の野原に左向きに後ろ足で立った一角獣の姿が描かれていたが、そのラベルを含め、巻物の半面以上がアスタの血に染まっていた。
カイトは何も動くものがなくなったその場から、ふらふらと歩き出し、立ち去りながら、その巻物を上衣の下に押し込んだ。
戦いの音、燃える音はさらに遠くなり、雨の激しい音だけがカイトの耳を打った。カイトはしばらくさまようように、共に逃げていく者を探して歩いた。
が、ほぼ正面、木々の間から、よく見慣れた長身の影が姿を現した。紫紺の外套の頭巾を目深にかぶった、逞しい老人だった。抜き身の湾刀(タルワール)をさげており、その刃はおびただしい返り血に染まっていた。
「ここにいたか」パラニアはカイトの姿を認めて言った。「ほぼ立ち退きは済んだ。逃げられる者は、だがな」
「イークたちが……逃げられなかった」カイトは上の空で言った。
「イークも、多くの人間や他の種族の者達もだ」パラニアが頷き、低く言った。
「隊商たちは──」
「生き残っている者はいるが、もう隊とは言えぬほど完全に散り散りだ。もう無理に合流もできん。かえって互いに危険だ」
カイトは呆然と、上衣の下の巻物を押さえた。アスタが馬車から持ち出し、そのために命を代償にした巻物は、カイトが気絶している間に隊商に届けることもできなくなり、それすらも無駄に終わっていたのだった。
「わしらは双子と合流するぞ」パラニアはカイトを促し、「北の山に紛れ込んで逃げ、そこからモリバントに向かう」
そのままカイトはパラニアについて、早足で北に向かって道もない荒野を進み続けた。何刻か、半日くらいかもしれないが、正確にはどれくらいの時間かはわからない。かなり激しい雨が続き、陽の光もささず、時間の経過がわからなかった。しかし、ただの幸いだったのか、何かパラニアが避ける手段を持っていたのか、特に危険なものに出会う気配は無かった。そして、隊商からの他の逃亡者に出会うことも。
やがて、正面に切り立った岩山をのぞむ、山道の入り口のような箇所にさしかかると、さきの西方国の遺跡に似たような石柱があった。その傍らに、石に掛けているアリスとマリアの姿があった。双子は老人とカイトの姿を認め、安堵したような様子を見せて立ち上がった。ついでマリアの方は、泣き出しそうなのを堪えるような表情を見せた。
「どうなったの」アリスの方は進み出てパラニアに尋ねた。
「残った隊商の中には、『辺境の地』に引き返す者もいる。他の樹エルフや森エルフの集団の方に合流しようとする者もいる。……だが、どうしても『モリバント』に向かう、という者たちもいた。もちろん、街道から向かうのは今では最も危険な道だ。モリバントから来た森エルフの射手と、あとはルーミルも、他の樹エルフからは離れて、そちらに同行した。だが、かれら全員、ほとんど辿り着ける見込みはあるまい」
パラニアは休む様子もなく、杖で山道の方を指した。
「岩山の中に入る。北回りでモリバントを目指す」
一行は険しい山道に入っていった。カイトは一言も口を聞かず、ただ足だけを動かし、双子のうしろについて歩いていった。
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