煉獄の行進
12
煙の中から、不気味な手足の長さを持つ小柄な怪生物どもが次々と飛び出してきた。遠くから見ると、カイトらの語彙からはゴブリンだの人型モンスターだのという形容ができたが、近くに寄ると、洞窟の地下に住む水棲生物のような肌と目をした、これまで見知ったどんな生物ともかけ離れた醜怪な化け物どもだった。それがぎらつく牙を剥きだして突進してくる様は、どんな不死や魔族や合成生物に見慣れたカイトら冒険者でも、思わず一歩は後退するほどにおぞましいの一言に尽きた。いくつかの生き物は先ほどの呪文で、火傷を負っていたり鎧の端が焦げていたりするが、致命傷どころか、動きに支障があるほどに外傷を受けている者は一体たりとて居ない。
「そんなっ! ファイアー・ボールが当たっ」もう一人の女魔道士が叫んだところでその顔の側面を数本の矢が貫通し、目や口や鼻の穴を、貫通した矢柄の側面で格子が降りたように塞がれた。一気に頭蓋を貫通した矢が文字通り頭蓋の中を矢柄で一杯にしたようだった。さきほどの矢よりも遥かに威力のある、おそらく張りの強い弓のもので、後列から一回り大きい生物が矢を放ち続けるのが見えた。
突進してくるその小柄な生物らの前に、我に返ったように、三人組のひとり、さきの重戦士が動いた。他の一行との間を遮るように、重戦士の大柄な体が、両手持ちの剣を構えて立ちふさがった。ゴブリンというのは、こういった長大な剣にも、リーチが短い武器しかないのに正面から突撃してくるだけの低知能の生物のはずだった。重戦士に対して、何も考えずに突進し、自分の間合いの外から一方的に叩き潰されるだけなのがゴブリンの、いや、低レベルモンスターはその他の思慮や行動などあるはずがないのがお約束で、それは冒険者ならば誰しも、無数に見てきた光景だった。
ゴブリン──いや、パラニアらが先に触れていた呼び方によると、『洞窟オーク』らは、しかし、数体がそれぞれわずかに歩幅をずらして疾走した。そして先頭の一体が、半身から不意に片手斬りを放った。間合いが異様なほどに伸びた。洞窟オークの小柄な体格と、それに不似合いに長い手足、さらには片手斬りの際の握りの長短の変化、半身の踏み込みのためなのか、重戦士はわずかに間合いを見切れず、洞窟オークのその片手切りが胴をかすった。が、続く数体のそれぞれが歩数と伸びをずらした斬撃の間合いは完全に全て見誤った。重戦士の身をかわす動きにもかかわらず、洞窟オークらの剣は重戦士の鎧に覆われていない箇所を正確に狙って次々と切り裂いた。重戦士は仰向けに倒れてゆき、その身体が地に落ちるよりも前に、最後の洞窟オークが通りすぎざまにその喉をかき切り、とどめをさした。
それらの矢や剣の音のためか、さきほどの呪文の音か、それとも後列にいた者の何かの警告があったのか、木陰から──さきほど魔法剣士がじっくりと観察していたはずの方向だが、そこに何かが存在することは魔法剣士には全く見抜けていなかった──数体の”人型モンスター”の別の集団が姿をあらわした。やはり大きさなどが雑多だが、人間より大柄な生物が多く、こちらが『本隊』ではないかと思えた。そのうち数体はこちらに向けて突進してきたが、木々の間に立ち止まったまま、こちらを伺っているひときわ大きな一体がいた。
その姿に、カイトの目は驚愕に引き剥かんばかりに見開かれた。
鋼鉄の塊のような装具で身を覆ったその巨大な一体は、手にしている槌矛を振りかざすと、それをあたかも杖のように掲げながら、なんらかの言葉を朗々と唱えた。その空間そのものを身震いさせ大気と地を慄かせているような言葉は、カイトの記憶では一番近いものは、確か、マリアが丘オークに出会った時に発した言葉や、ささやいていた歌だった。しかし、近いのはその空間に与えている余波のようなものだけで、それに比べるとあまりにも猛々しく、圧倒的な威圧感をもって響いた。石をもきしむ音が聞こえたようだった。
カイトの背筋を悪寒が駆け巡った。数人の冒険者が身をすくませるのを見る限り、この音に対しては同様に感じた者がほとんどのようだった。たちこめていた暗雲は一気に濃く、空は真っ黒になり、ずっしりと重くなった大気に風の音も木々のざわめきすらも止まった。少なくともそう聞こえた。
その言葉が途切れたとき、カイトの後方、つまり重戦士が食い止めようとしていた後列の冒険者パーティーの数人のただなかに、氷の嵐が出現した。
……カイトは魔道士協会によって冒険者らに教えられている冷却呪文は、ほとんどの種類を見たことがあった。絶対零度だとかいう名がついている呪文も、それ以上の、魔族四天王の氷の覇王の力をかりた冷却呪文という一種の禁呪を使った魔術士も、かつての仲間にはいた。しかし、それらの威力など、この巨大な槌矛を持つ一体から放たれた”その何か”に比べれば、まさしく児戯にもひとしいものだった。
まさに爆発的な勢いと苛烈さで吹き荒れた気流と衝撃の逆巻く過流と、極低温の氷塊の無数の刃によって、後列の冒険者らが幾千もの、剣聖剣技級の剣圧で全身がずたずたに切り裂かれていくのが見えた。しかし、おぞましいのはその先だった。急激な温度差が万力のように人体をひねり潰し、さきの裂傷のひびの入った部分から人体が激しくねじ切れ崩れていった。それも束の間、冷気がその人体の全てを凍り付かせ、そして、さらに舞い狂う無数の氷の利剣が、脆くなった人体を寸刻みで削り取り剥がし取り、崩壊させていった。人体というものがまさしくこれほど徹底的に破壊を尽くされていく様を、カイトは黙って見ているしかなかった。というのは、あまりにも強くその光景のひとつひとつがカイトの目に焼きつけられたため、それがはたして長い間をかけて起こったのか、数十分の一拍の間にすべて起こったのかは、皆目わからなかったためだった。
一行の装備品、壊れることなどありえないマジックアイテム、あたりの土や岩のあらゆるものが、同様に冷気で脆く崩壊させられ、塵となって吹き散った。
「そんなっ! あんな氷結、嵐……分解、……破壊、……呪文……なんて、人間の魔力容量(キャパシティ)でできるわけがない!」魔法剣士が回らない舌、上ずった声で叫んだ。「魔族だっ! 人型モンスターのどこかに魔族が混ざってるぞ!」
「騙しやがったな!」誰かが、その魔法剣士を罵倒するのが聞こえた。「魔族がいるなんて聞いてないぞ!」
「……まさか……僕は……そんな!」魔法剣士がかすれた声で叫ぶのが聞こえた。
──いや、『魔族などではない』。
カイトは本当は、それを知っていた。相手が何なのかも、誰なのかすらも知っていた。しかし心がそれを深く考えようとするのを故意に拒み、受け入れるのも、周りに告げるのも拒否した。
それはオーガの首領だった。オーガーなどというのは腰に毛皮だけまとって素手か木の棍棒をでたらめに振り回すだけの、文化も知能も言語を話すことすらない怪物だと、誰もが信じている。武装しているどころか、呪文を、しかもあれほど恐るべき言葉を発し、信じがたいほど強力な術を使用するなど、ありえるわけがない。現にカイトも今も心の全てが全力で理解を拒んでいる。しかし、知能も武装度も人間よりもはるかに高く、人間より遥かに流暢に言葉を操るオーガを、カイトは見知っていた。
あの地下牢の尋問者だった。人間よりふた周りほどの巨躯そのものに、鎖と板金が積み上げられた鋼鉄の塊、今遠くから目にするその巨躯の威容は、旧魔国の王、幽鬼の首領と共に現れ、カイトを苛み尋問した、あのオーガの首領その本人に他ならなかった。
何もできなかった。踏み出すこともできなかった。自分が元の世界で連発してきたはずの、オーガーやゴブリンなど一撃のもとに大量に吹き飛ばせる攻撃、必殺技を思い出そうとしても、何ひとつ浮かんでこなかった。カイトのすべてを、恐怖が支配していた。
「現に、お前らの目の前にいるのはただのゴブリンやオーガーだろ!」魔法剣士は金切り声で、さきほどの魔族云々の警告とは完全にちぐはぐなことを言った。「さっさと片付けろよ! 攻撃呪文で一掃しちまえ!」
例の三人連れのひとりの長身の高レベル神術士と、他の冒険者パーティーの神術士、神官戦士が、一斉に両手を突き出し衝撃を放った。白魔道の衝撃波(フォース)の呪文だった。真横から踏み込んできた別のオーガ、首領よりは軽装だが全身武装した一体は、巨大な石の棍棒をふるい、その棒の衝撃が呪文の衝撃波と激突した。棍棒の衝撃が神術士らの全員の突き出した手ごと、上半身を全員分、いっぺんに叩き潰し、千切り飛ばした。神術士らの下半身だけが転がった。
”低レベル人型モンスター”のうち、今まで後列にいた大きめの一体が弓を背に追うと、大楯を前にして突進してきた。カイトが前に見た丘オークによく似た、しかし、肌は黒く、これも黒い装備で全身を鎧った、ブラック・オークとも表現できるような一体で、不気味な《一つ目》の描かれた黒い大楯もかなり巨大だった。冒険者数人が持ち運べる量を明らかにこえた重装備だというのに、突進してくる速度は信じられないほどの脚力だった。
黒衣の黒魔道士がなめらかな発音で長大な呪文を唱え、赤い光がその駆けてくるブラック・オークに集中していき、爆発が起こった。人間の魔力容量(キャパシティ)の最大限を要し、岩山や市街も吹き飛ばすこともでき、千数百歳のドラゴンも一撃必殺の攻撃呪文だった。それが間違いなく一体の人型モンスターに直撃した。人型モンスターや人間など、一軍であっても跡形も残さず消失、一掃されているはずだった。
その煙の中からブラック・オークの姿が現れた。《一つ目》の印の大楯が煙や爆発に対して掲げられていたが、その表面がすすけていただけだった。ブラック・オークは突進しながら楯を背に負うと、剣を両手で振りかぶった。
今の呪文が爆発したときよりも遥かに凄まじい破壊音がした。肉と骨が断ち切られるだけの音、ごく聞き慣れた音でしかないはずだったが、カイトには間違いなくそこまでの破壊の響きに聞こえた。
黒魔道士は頭の天辺から股まで、完全に縦に真っ二つに両断された。
まるで据え物の試し切りか、むしろ、野菜か何かを真っ二つに切っているようだった。あまりの現実味の無さは、確かに目の前に見えているにもかかわらず、何かの冗談を聞いている最中か何かのように感じられた。
別パーティーの東洋風の装具の一人、女サムライが刀を八双に構え、足場を確かめつつじりじりとそのブラック・オークに正対した。ブラック・オークは上体を寸分たりとも動かさず、足場の悪いはずの土地を難なくするすると滑るように近づきつつ、おろしていた剣を振りかぶらずに、そのままよどみなく脇構えに回した。
女サムライが踏み込み、ブラック・オークは、それからかなり遅れて剣を出した。その差は一目瞭然だった。いくらなんでも、さすがにこれはどう見ても、女サムライの勝ちは動かないとカイトは思った。
が、両者の剣尖が交差すると、オークの剣はサムライの刀に沿うように──遅れて出たがために、その刃の上を乗りかかるように滑っていた。その正確無比な切り込みは、かつて見た、いや、カイト自身がその身に受けかけた、丘オークの太刀筋によく似ているように見えた。刃の上に交差して乗りかかったオークの剣は、女サムライの刀の金属の鍔を難なく斬り飛ばし、そのままサムライの拳を切り落とした。そのオークの剣の振り下ろされる軌道に沿って、女サムライの刀が両手から落ちた。
ブラック・オークは軽々と刃を返し、女サムライの首を丁と刎ねた。まるでカイトの故郷の都の大路の噴水のような鮮血が、これも噴水の伴う煌めきのような赤い飛沫と共に天高く噴き上がった。
十文字勝。肋一寸。この術技は、カイトも元の世界で見たことがあった。この剣技をまともに使うことができたのは、カイトの世界ではただ一人、山奥に済む引退した白髪長鬚の老剣豪だけだった。老いた剣豪は緩慢で不正確な動きしかできなくなっていたが、それでもなぜか、王国の近衛騎士の誰一人として、太刀打ちできる者はいなかった。そして、今のブラック・オークの剣技は、かつてカイトの見たその老剣豪とは比較にならないほどの速さ、重さと力、正確さのものだった。オークでも数万人を率いるとかいう戦将でも、異常変異種でもなんでもない。オークの一兵士が、そんな剣技を軽々と使ったのだ。
ふたたび、オーガの一体が石の棍棒をふりおろした。地面に大穴が穿たれ、そこに数人の高レベル冒険者が、潰された羽虫の死骸のように孔の形に沿ってへばりついていた。
魔法剣士はその場に棒立ちのように突っ立ったまま、次々と呪文の名前を絶叫しながら、攻撃呪文を大量に連発していた。あの鋼鉄の山のようなオーガの首領は、正面からのその攻撃などは、曇天からの小雨が降りかかっているのと同様に何ら意に介さずに歩み寄っていた。手の巨大な槌矛を振り下ろすことさえせずに、魔法剣士を鉄靴のつま先にひっかけた。魔法剣士が無我夢中で振り回した、魔法光を帯びた魔法剣は鉄靴にぶつかった拍子に数欠片に砕けて、手から弾け飛んだ。魔法剣士は叩き落とされたハエのように地面に激突した。その上にオーガの首領の鉄靴がのしかかった。
暗天と小雨の静寂を切り裂いて、魔法剣士の耳をつんざくようなもの凄まじい絶叫が響き渡った。その叫び声の中にあっても、鉄靴の下の骨肉の砕ける音がカイトの所まで聞こえてきた。
「カイト……カイト先輩!」そのとき、魔法剣士はあおむけに倒れたまま、カイトの姿など見えてもおらず、生き残っているかも知らないはずなのに、その名を叫んだ。「いるんだろ!! さっさと倒せ! 強いんだろ! こいつを倒すんだよ!! ……マジック・アイテムの分け前も全部、僕らの分の金の分け前も、隊商からの報酬も全部やるよ! だから早く倒せって……倒せ……どうにか、なんとかしろって言ってるだろお!」
それは不可能だったが、どのみち、仮にカイトの全力でも『なんとかする』にはあまりにも遅すぎた。
「嘘だ! 絶対ありえない!! いやだ! こんなのは……まさか」次の瞬間、再度絶叫が響き渡ったが、次のそれは、もはや人間の声とは思えなかった。その甲高い金属がこすれながらちぎれ破れるような音は、人間やその他の生き物の声とすら思えない、何かの構造が破壊されている最中の音のようだった。聞いたこともないのも当然だった。カイトはそこまで人間が苦しむのを、これほどまでの苦痛を与えられるのを、このように人間が破壊されるのを、実際に見たことも聞いたこともなかったためだった。
それが唐突に止んで、魔法剣士の嘔吐のような音がしたが、それは口から出た音にしてはあまりにも大きすぎたのは、体中の孔という孔、生じた裂け目という裂け目から、内臓や体液やその他、ともかくも人間のあらゆる内容物がありったけ噴出したためだった。
カイトも何か絶叫していた。耳に残っている一連のそれらの声や音を振り払おうとでもしているようだったが、自覚は無かった。自分がすでに走り続けていることにすら気付いていなかった。あのオーガの首領が、追ってくるでもなく、あの地下牢で見下ろしていた時と同様に、ただ立ってこちらを見続けているているような気がしたが、カイトはその姿からどこまでも、地の果てまでも遠ざかろうと走り続けた。
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