煉獄は常闇の森
3
「話したがってるって、相手は魔狼よ!?」アリスが鋭く言った。「確かに、自然の獣や鳥と語る方法はあるわよ。だけど、それは『魔狼(ワーグ)』には効かないはずよ」
「それとは別の術で」マリアが小さく言った。「私の口をかりて──このひとが喋るようにできる、と思う」
アリスはしばらく沈黙してから、突如叫んだ。
「それは、この魔狼の心をマリアに乗り移らせるってこと!?」
マリアは頷いた。「アエニルさんに教わったの」
「確かにそういう術はある」パラニアが言った。
「あのアエニルのって、それは本当にきちんとした術なの!? 乗り移らせる方は安全なのか、乗り移る時に本当に合うのか、元に戻る時は!? おおよそ危険な要素しか思いつかないわよ!」
「『きちんとした術』だが、危険さについてもその通りだ」パラニアがアリスに言った。
「冗談じゃないわ!」アリスが叫んだ。
そのまま、しばらく言葉がとだえた。が、
「彼ともういちど、話せるのですか……」アークビショップが静かに言った。「技や魔術でできるのでしたら、……お願いできませんか」
カイトは漠然と、アークビショップは術や技は『能力さえ足りていれば発動でき』、ボタンを押すように『発動しさえすれば済む』物で、そこに何の困難も、術そのものへの危険も、何ら予想していないのだと気付いた。カイトがかつてそうだったためだ。
が、どちらにせよ、仮に術の危険、小さな少女を危機にさらす、といったことを理解していたとしても、エクスソーサラーと話したいというのはアークビショップにとっては同じことで、おそらくそれは止められないのではないか。この魔狼と化した伴侶をこの場に残して、このまま帰ることは、おそらく彼女にはできないだろう。
「なんとか、試せないか」カイトは言った。「パラニアや、アリスが手伝いながらだと……」
「私にどうしろっていうのよ。アエニルのへんてこなまじないなんて、私の方は何も知らないわよ」アリスは言ってから、再度、パラニアを見た。
「わしはマリアを止めん」が、老人はカイトにも予想外のことを言った。
「賛成する気!? こんなことに」アリスが叫んだ。
「いや、賛成などはせん」パラニアはゆっくりと言った。「ここにいるわし以外の全員が行うことを許す、というのでなければ、決して手助けはせんぞ。……しかし、マリア本人と、かつその他の皆の望みというのであれば、わしは可能な限りマリアに手をかす。この娘自身が決めたことでもあるからだ」
全員が沈黙した。
「つまり、アリスが許せばだ」カイトは言わずもがなと知りつつ、アリスに言った。
カイト、アークビショップとマリアが、アリスを見た。
「おねえちゃん……」マリアが呟いた
アリスはしかめ面をしていた。かれらから目をそらし、素早く片手の指を順番に曲げては開く(カイトから見るとかなり意味不明の)仕草を繰り返した。石床の方を見下ろして、何か他によい案がないか、あるいは、何でもいいから他の全員に反駁できるような材料を、何やらそこから探そうとでもしているように見えた。
しかし、おそるおそる目を戻すと、マリアはその前とかわらずに、懇願するようにアリスを見つめ続けている。アリスは気まずいように、マリアからの視線をしばらく見返し続けてから、やがて首を振った。
「……危なくなったら、術を始めるより前でもすぐに止めるわよ」
「ありがとう」マリアがアリスの両肩に手を置いて言った。「ありがとう──」
なぜかアークビショップよりも、マリアがアリスに感謝しているように見えた。アークビショップは、当然かもしれないが狼の方が気になるのか、そちらに目を移していた。
マリアが段差の下の円陣の窪みに降りた。アークビショップはその魔狼と話すため、パラニアはマリアの術を手助けするために、やはり降りた。アリスとカイトは──何かできることがあるわけがないが、何かあったときに、マリアに何かできることがあるかもしれないと思い、やはりあとについて降りた。
獣の低い禍々しい唸り声が続く中、マリアは魔狼に歩み寄り、手を差し出すように掲げた。何かの言葉を呟きながらのようだった。パラニアも杖を掲げながら、そのマリアの言葉に調を合わせるような言語を発しているようだったが、どちらの声も、魔狼のうめき声の反響に混じって、カイトにはよくわからなかった。どちらもカイトが何かごく最近聞いたことのある言語に似ている気がしたが、何も聞き取れなかった。
そのままマリアとパラニアは立ったままでいたが、突如、マリアの身体は支点を失ったようにがくりとかしいだ。そのまま膝から落ちるように見え、思わずカイトとアリスが駆け寄りかけて身じろぎしたが、──マリアは突如、しっかりと立ち上がり、一行の方を振り返った。
ほぼ魔狼の視線と同じ方向を見ているマリアのはしばみ色の目は、しかし、見開かれたままで、瞳には何も映っていなかった。
《最後に、人と話すことができるとは》
そのマリアが口を開いて出たのは、確かにもとの少女の声だったが、まるで同一人物の声色とは思えなかった。声の質がほぼ同じでも、その口調や発声の仕方は、双子のアリス以上にかけ離れていた。
何か姿や声質が変わったというわけでもないのに、マリアの声色も立つ姿も、まるで元の少女の面影は無くなっていた。少女が背筋を伸ばし、あたかも遥かに長身で威厳のある体躯であるかのような立ち姿は、少なくともカイトの記憶にあるマリアの立つ姿には見覚えがない。口調は少女よりもかなり高い年齢と、高い知性、気位を感じさせたが、同時に、そのマリアの声の中には、唸り声のような人間としては不自然な息の漏れ方が混ざっているように思える。
マリアの目が何も見ていない一方で、闇の中から、ひいては黒光りする魔狼の毛皮の奥からこちらを凝視してくる獣の金の目が、言葉と共に語ってきているように見えた。
《最後まで、人の言葉も心も取り戻せないと思っていた。私がここで終わり、獣として破滅し地に骸をさらすより前に、誰かに話すことができる、それを、とても感謝したい》
「あなたなの!? 本当に!?」アークビショップが叫んだ。こちらを見ている魔狼と、何も目に映さずに言葉だけを発しているマリアを、どちらに声をかけてよいのか当惑でもしているのか、交互に見た。
《君と一緒にこの世界に来た、『エクスソーサラー』と呼ばれていた者だ》マリアは寸分も動かず、口だけを動かして声を発した。《記憶はおぼろなものでしかないが──元の世界での、君との最初のアンデッド退治のクエストも、元の世界の仲間、三次職ジョブに移れなくて離脱したナイトとハンターのことも、まだなんとか思い出せる》
アークビショップは目を見張った。おそらくは、まさに彼女の旧知でしか知りえない内容であるらしい。
「なぜこんなことになったの!? 何故そんな身体に……」アークビショップは続けて問いかけた。「何に……どう巻き込まれたの!?」
《君たちにも既にわかる通り、ここにあるルーンに触れてしまったからだ。……巻き込まれたのではない。何か別の者の仕業でもない。私が自分からこの岩屋を探し当て、このルーンに近づき、力を呼び起こしてしまったためだ。私自身が、力を得ようとして、不用意に近づいたためだ》
魔狼は首を回し、その獣の知性を帯びた目はアークビショップの方を見つめ、マリアの声をかりて話し続けた。
《この世界で、どうしても力が必要だった。元の世界で冒険していた理由のような、自分の知識や能力への欲や渇望ではなく、この世界で生き延びるための、差し迫った必要だ。……私の、いや、私や君の力は、この世界では、最低レベルのモンスター術者にも及ばない力でしかない。この世界のモンスターが強すぎるのか、我々が実は弱すぎたのか、それはわからないが、どうしようもない事実だ。ここに来るまでにも試してみた。私の魔力は、この世界では、辺りのありふれたモンスター術者、オーク・シャーマンにすらも、遥かに遠く及ばない》
魔狼の言葉、マリアが発する『レベル』『モンスター』などの”音節がすべて独立した偽共通語”の部分に入るたび、マリア自身の発声器官がその語に慣れていないのか、舌がもつれているような耳障りさがあった。
「あなたの力がモンスター以下って……そんなわけないでしょう!」アークビショップが叫んだ。「この世界に来たばかりの頃、二人で町の外で、あんなにモンスターを大量に倒したじゃない!」
《あれはモンスターではない。『町人』だった》魔狼がマリアの声で言った。《かなりの強敵だったのに、経験値が入らないのがおかしいと、君も言っていただろう。経験が入るモンスターでさえなかったのだ》
カイトにも覚えがあった。老人や姉妹と旅している頃に、テルモラの都の裏道あたりで出くわした町人は、カイトの元いた世界の最も凶悪な『モンスター』よりも、遥かに醜悪で汚らしく、完全に化け物じみていた。さらに、靴下一枚奪う目的のために裏道に引っ張りこまれて刺されても何の不思議もないなど、凶暴さや悪辣さにおいても、”狩場”でおとなしく”狩られてくれることになっている”元の世界のモンスターなどよりも、遥かに危険だった。そして、それらの『町人』などは、この”鉄獄”の世界に存在するものの中では、何ら差し迫った脅威のうちには入っていないらしい、ということも聞いていた。
《このままでは、ここの世界の本当のモンスターに抗う力などは何もなかった。何とかしたかった。私がこの世界でも強大なエクスソーサラーだ、などと思っている君も、失望させたくはなかったし、何も対策がない、何もできないとは思いたくは──いや、自分がここでは、天才でも優秀でも何でもない、という事実を、自分でも認めたくはなかったのだ。……そんなときに、君も聞いていた、この森の遺跡の話だ。さらに話を聞いて、その奥の”黒の言葉”のルーンの話を聞いたのだ。この世界に存在する呪文、魔術を手に入れて、我が物にすれば、この世界で通用する力を得られると思った。そんなことは、禁呪も制御できる自分の能力なら、たやすく達成できるに違いないと思った》
魔狼は──マリアを介した──言葉を切り、低い吠え声を上げてから、
《この広間に辿り着き、ルーンを我が物にしようと、術として起動しようと試みた、力を呼び込んだ途端に、この獣の姿と心に囚われた。……簡単な話だったのだ。そんなに容易に制御して我が物にできる、オーク・シャーマンやら何やらを上回る力を得られるなら、なぜ私以上の能力のオーク・シャーマンどもが、このルーンからさらに上回る力を得ようともせずに、触れずに放っておく? 自分は『特別』な存在だと妄信して、そんな簡単なことすら判断できなかったのだ。こんな姿になるまで》
魔狼の、マリアの言葉がしばらく途絶え、
《次第に獣に変わってゆき、人の形を失うにつれ、装備もできなくなった。……この廃墟の中を動くことはできるが、出ることはできない。迷い込んでくる小型の動物を喰らって、今日まで生きてきた。しかし、それも限界に近い。次第に人間の記憶も忘れてゆく》
アークビショップがその魔狼の言葉に呆然としていた。……しかし、エクスソーサラーが語る内容は、カイトをも愕然とさせた。カイト同様になんとか『この”鉄獄”世界で生きようとする方法』を模索した結果、元いた世界では最も優秀だったというエクスソーサラーが辿った末路が、これだというのだ。
「一体、どういう術なの……」アリスが呟いた。
「かつて、上古の時代の話だ。闇の者らの最も卓越した妖術師、今では”暗黒の御座のかの者”と呼ばれている者だが、かれは現世の獣を歪めて膨らませ、束縛し操ることで、強大な軍勢に加えていた」パラニアは、石柱の並び立つ暗い広間を一旦見回してから、アリスに向けて低く言った。「やつらにとって、肉体などは服のような、容れ物のようなもので、霊の形にかかわらず、作り変えるなどは自在なのだ。かの妖術師の生み出した最も恐るべき獣の中には、巨狼や吸血蝙蝠の形に変容させられた獣の身体に、かの妖術師と同格の、この世の始まり以前より存在する、邪悪な精霊自身の霊が封じ込められた者もいた。……この暗黒の変容のルーンこそは、その現世以前、すべての生ける者の肉体が形作られる以前の、創世の精霊らの奥義なのだ。……かれらの術により変容させられたものを、ふたたび変容させることはできるが、それは、アエニルらのわざのような、かりそめの『変化の術』の施術や解除とは異なる。生ける者の作られた肉体の容を再度ねじまげる、かの者らの所業と同じ暗黒の業でしかない」
カイトのまるで知らない背景を語っているらしいそのパラニアを、アリスが目を見張って見上げていた。
「『妖術の丘』の術者らは、かの妖術師の所業にならい、おそらくはその奥義のいくばくかも与えられて、同様に動物を操り、変容させ、自らの意に沿うように束縛し、自らの戦力となる獣の軍勢を作り出す拠点として、ここを作ったのだ」パラニアはアリスに、杖で石柱のルーンを示してみせ、「『変容』と共に刻まれた『束縛』のルーンは、これらの石の形状を組み上げると共に、その作られた獣を一時この場にとどめ、戦力とするのに用いられていたのだ」
かなりの間、沈黙が流れた。立ったまま、気を絶ったように身じろぎもせず視線も息も乱さないマリアの姿と、その傍らで蠢くような魔狼の姿が、常闇のような広間の奥から、アークビショップの光の精霊の冷たい光の中に浮かび上がっている。獣の荒い息遣いだけが、広間にかすかに低く反響していた。
《私は、もう帰ることはできない》やがて、魔狼がマリアの声で言った。《獣から元の姿に戻る手段はわからない。わかったとしても、君は決して試してはいけない。間違いなく、同じか、もっと酷い目にあうだろう》
「あなたなしに、どうやって生きていけばいいの!?」アークビショップが叫んだ。
それは、聞いた通りに人生を生きるための拠り所のことを言っているのか、それとも、単に『パーティー構成』や『冒険者として必要な能力』のことを言っているのか、カイトにはわからなかった。
《私からは、もうその答えは君に何も与えることはできない。こうなっては、全ては手遅れだ》魔狼の目がアークビショップを見つめながら、マリアの声が言った。
アークビショップはしばらく黙ってから、やがて、意を決したように言った。
「いいえ、必ず治せるはずよ。……私はアークビショップ、持つ力は癒し」
女司祭は、円陣の石組の周囲にびっしりと刻まれた灰色エルフ文字、黒の言葉のルーンを見下ろしながら言った。
「ここの呪文のせいでこうなったとしたら、その呪文を解除すれば治せるはず。彼がこの呪文を『起動』できたのだとすれば、同じ魔術体系の術を使える私も、起動することはできるし、制御して、逆転させて解除することもできるはずよ」
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