煉獄は常闇の森







 1

 アングウィルの街の北に広がる鬱蒼とした森は、常に陽が出ていないのかと思えるほど木々の陰が濃く、僅かな木漏れ日すらも弱く、それらさえあたかも深緑がかり、あるいは暗く見える。今は秋や冬でもないが、足元には分厚く落ち葉が積み重なり、下生えや巨大な根の張り方のために足場が極めて悪い。木々の密集で通り道そのものも入り組んでいた。
 カイトは一歩踏み出すごとにも難儀する思いだった。野を歩くことすら難儀するとは、今までは考えたこともなかったが、歩きにくいだけでなく、疲れがたまると言うことだ。
 「だいぶ遅れてるわよ」アリスが振り返って、低く鋭く言った。
 カイトは恨めしそうにアリスを見当たが、反論のしようがないし、かといって軽口を返す気分にもなれなかった。目の前を歩くアリス、濃紺の短衣と外套に長い赤毛の少女。そのすぐ前を歩くマリア、同じ服装の短い赤毛の少女。ほぼ並んで先導する長身のパラニア、同じ濃紺の長衣と水松樹の杖の老人。その三人ともが、カイトよりも遥かに軽々と屋外を歩く。屋外を旅慣れているというよりは、いささか不可解な域で、山林を移動するように見える。大概の地形では、舗装された石畳の上のように軽々と歩み、少なくとも普通の行軍では、疲れているのを見たこともない。
 長身の老人、パラニアが立ち止まり、振り返った(同時にマリアもそうした)。
 「無理に進まなくとも、日が暮れるまでに、『妖術の丘』からは充分に離れた所までは辿り着ける」パラニアはカイトと、アリスの方も見て言った。「根気よく進むしかない。むしろ、余計なものに目移りしてはならんぞ」
 「寄り道しないのは言うまでもないわね」アリスは言って、カイトを振り返るのも余計などと言わんばかりに、まっすぐ歩き続けた。
 カイトも無言で、この歩行のような、日々じわじわと続くこの労力を費やしてまで、かれらと同行する価値があるのか、という、かつて一度は決意したことにかすかに迷いつつ、歩き続けた。
 カイトはかつて、元いた世界では、『高レベル冒険者』だった。謎の”黒と銀の男”に誘われて、この”鉄獄”の次元世界に迷い込んだ。しかし、この老人と双子らと旅するうちに、細かい話はまだ充分に理解したとはいえないが、自分がまるで無力である、この世界に対して、成すすべも持たないことがわかってきた。元の世界でそうだったような力を取り戻す、強さを身に着けなければならない。しかし、どうやってそれを得るのかは、皆目見当もつかなかった。かつて冒険者学園にいた頃のように、経験の点数を稼げばいい、自分より遥かに弱い敵を見つけて機械的に潰していれば強くなれる、というわけではなさそうだ──そもそもカイトに簡単に倒せる敵など、この世界ではほとんど現れない。倒すにはどうすればよいのか。それも皆目わからない。わかることは、この世界で探すしかないということだ。たとえ、この少女らよりも無力だと、日々見せつけられるとしても。
 歩き続ける限り延々と、見渡す限りの光景が深緑一色で、目が妙な感覚になってくる。カイトは前を歩くアリスの尖った帽子の紺色(と、その下の赤毛)にしばしば目を移しながら進んだ。しかし、パラニアとマリアは、まるでその緑の光景の中に違う色のもの、道が見えているかのように先行してゆく。カイトは、自分も森の中に何か別のものが見えないかと、目をこらした。
 と、行く先をさほど外れないあたりに、明らかに木漏れ日とは違う鋭い光源が見えた。光は激しく、数拍を置いて断続的に瞬いた。炎の赤ではないようだった。
 「誰が起こしてるにしろ、不用心だわ。獣除けの効果よりも、かえって目立つと危険なのに」アリスが言った。「関わるべきじゃないわよ──」
 が、再びさらに強く光が瞬き、続いて視界に入ってきたのは、その光と同じ方向にいる何者かの姿だった。カイトは目を見張った。司祭の、法衣の姿のようだ。そうすぐに判断できたのは、この世界の人々が長旅をする際のいかにも重く分厚いマント(紺色のこの三人を含み、今ではカイト自身もそうだが)ではなく、その法衣が、カイトの”元いた世界の神術士の服装”に近いように見えたからだった。何らかの相手と対面し、『攻撃呪文』を放っているようだ。
 カイトはそちらに向かって駆け出していた。
 「ちょっと、何考えてるの!」アリスが叫んだ。
 実のところ、カイトは深く考えたわけではなく、同じ世界から来た人間を再び間近で見たかっただけかもしれない。何を考えているか、ということをある程度いえば、同じ世界、また似た世界から来た者を手助けし、お互いに生きて合流できれば、この”鉄獄”の世界で相手がどう生きているかわかるかもしれない、ということになるだろう。
 「カイトさん!」が、双子の妹の方の声と共に、背後について駆けてくる音がした。
 「何!? マリアまで、待ちなさいよ、何なのよ!」背後のアリスの声はさらに続いたが、そのまま遠ざかってゆく。
 女司祭とおぼしき人物が森の中で対峙しているのは、狼のような動物に見えた。カイトには、自分がただの野生の狼に遅れを取ることは考えられなかった。この”鉄獄”の世界でカイトが全く歯が立たなかったのは、あくまでオークやオーガといった『モンスター』である。動物など、普通に考えてどんな世界でも同じ動物で、いくらなんでもそんな代物が強いわけがない。カイトは剣を抜き、まっすぐその相手に向かって駆けた。
 が、姿がよく見える所まで近づいて、カイトは驚愕に思わず足を止めた。全体的な姿形としては確かに狼、犬科の四足動物に、確かに似ている。しかし、それはカイトが犬や狼に対して持っている優美な精悍さとは到底かけ離れた、獰猛さがあまりにも予想の域を逸脱した獣の姿だった。毛は異常に硬く逆立ち、光沢のない汚泥のような色をしている。胴体の前肢部分があたかも盛り上がるように著しく発達し、頭部の形状は犬や狼に加えて、熊や野牛のような他の野生の剛力の獣の面影が無造作に混ざっているかのように見える。さきほどからの閃光、女司祭の『聖属性攻撃』が何度かその鼻面や胴体に命中し炸裂していたが、勢いが止まるようには見えなかった。
 が、狼はただの動物のはずだ。何か『高レベルのモンスター』である、といった可能性などありえない。個体の大きさや姿形の恐ろしさと、『モンスターのレベル』は何も相関関係はないはずだ。カイトは元の世界での経験を、そう自分に言い聞かせた。カイトはこの地で貰った使い慣れない剣を両手で頭上にふりかぶり、顔中を口にして必殺技の名前を絶叫しつつ、狼の真正面に向かって”勇者剣技”を放った。得体の知れない相手に対してカイトが可能な最大の手段がそれだった。
 それが命中したのかそうでなかったのかすらわからなかった。カイトの体躯に真向から獣の膨大な質量の圧力が激突し、カイトは石ころのように宙高く跳ね飛ばされ、そばの樹の根本に落下した。耳目がかすみ、必死で目をあけようとした。このままでは、自分か女司祭のどちらかが、次の一撃で食い殺されると確信しながら、どうにか起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。
 そのとき、轟音にさらされたような感覚がかすんだカイトの耳を撃った。
 「カリィマ スィーラ タウルェリンナ、アー レリィーャ!」
 猛然と風唸りに似たもの、というよりも、大気を存在させている空間そのものが揺らめいたような感覚が吹き抜けた。カイトの全身の肌がすくみあがり、毛が逆立った。
 ようやくかすんだ目に映った光景は、その直前を見逃したのかもしれなかったが、あたかも人間が何かを思い出したかのような仕草で、狼のような獣は足をとめ、やがて、木々の間に駆け込み、消え失せた。
 カイトは立ち上がって目をしばたき、無意識にさきの声がどこから聞こえたのか、あたりを見回した。しかし、どこを見ても、カイトの側には、さきほどついてきたマリアしかいない。短い赤毛の小さな少女は、立ち上がったばかりのカイトを気遣うように見つめていた。マリアはやがて、カイトの激突と落下の打ち身を調べはじめた。……おそらく、先ほどの声は気のせいだろう。ここの深い木々のざわめきが、何か空耳を伴ったに違いない。いや、思い出してみれば、声がしたというよりも、あの空間の唸りのような現象は、おおよそ人の発する言葉とは思えなかった──
 カイトは狼の去った方をしばらく見た。おそらく、さきほどまでの女司祭の攻撃呪文か、あるいはカイトの勇者剣技が、倒すことはできなかったが、狼を何か嫌悪させるなどで追い払うことができたのだろうか。何故か、あまりそんな気はしないが、他に考えられる要因がカイトには何も見つからないので、多分そうなのだろう。
 カイトが足音に気付いて視線を移すと、速足でアリスが駆け寄り、パラニアが続いて歩いてくるところだった。
 「何てことすんのよ!」アリスはどういうわけか、さきほど突進したカイトではなく、マリアに食ってかかっていた。「こんな場所で、あんな上のエルフ語なんて、『妖術の丘』の連中に聞きつけられたら一体どうする気なの!?」
 「それはあるかな」パラニアが、マリアと手当されているカイトを見下ろしながら言った。「が、この森の中は闇が濃すぎて、大概の光ではそう目だたんよ。さきのカイトたちの花火も含めてな」
 「魔狼(ワーグ)を追い払うんだったら、普通の火を起こすとか、方法はあったでしょう」アリスが口を尖らせた。
 「それも手だったかもしれんな。間に合ったかはわからんが」パラニアは言ってから、そこで、ようやく打ち身を負ったカイトを振り向き、
 「心配はいらんよ。魔狼としては、あれはたいして育ったものではない。力にせよ危険さにせよ、せいぜいが人間の何分の一、といった規模でしかない」
 「なんだと……」カイトは絶句した。
 「おまえにもたいした傷を与えるほどの力はない。……が、それで安心するのではなく、そんな力しかないものに対して、なぜ何もできなかったのか、そこを考えておくのがよいのかもしれん。さて──」
 パラニアが振り向くと、女司祭が歩み寄ってくるところだった。
 「助かりました」女司祭がカイトに言った。長い金髪、やや長身の大人の女性で、白と水色、金糸が使われた法衣に、錫杖を手にしている。さきほどはカイトの元の世界に似た服装かと思ったが、近くに寄ると、かなり違うように見えて来た。聖職者、と呼ぶにしては、服装の質感がさらに薄っぺらく、いかにも動きにくく非機能的だった。
 「この森を、一人で旅しておられるのか」パラニアが、女司祭のそんな服装を一瞥して言った。「それとも、同行している誰かとはぐれたかな」
 「はぐれた、と言えばそうなのですが」女司祭が答えた。「私は、以前にはぐれた連れを探してこの森に来ました。あなたがたは……」
 「南のテルモラあたりの戦火を逃れて、北に向かっている」パラニアが答えた。「どちらかといえば、あてどない旅だがな」
 「戦から逃げているという割には、戦う力が高いように見えます」女司祭はカイトを見て言った。さきほどの狼のような生物を追い払ったのは、自分の聖属性攻撃のほか、カイトの助力のためだったと、少なくともこの女司祭は理解しているようだった。
 「さて、旅をするに充分に身を守れるかどうかと、戦を避けたいかどうかは、別の問題だとは思うのだがな。ことに、幼い姉妹を連れていればそうだ」パラニアは短く刈った顎鬚を撫でながら答えた。
 女司祭は少し考えてから、「もし迷惑でなければ、そして、急いでどこかに向かっているのでなければ。手を貸して欲しいのですが。……連れを探すのに。お礼はできます」


 「私はアークビショップで、探している彼はエクスソーサラーです」女司祭は名乗った。
 それらはカイトの耳にも、明らかに”名前”ではないように聞こえた。一般名詞、称号や肩書きのようだが、どうもアリスやパラニア、その他、この世界に来てから出会う人々の口にする、『魔法使』『野伏』『忍びの者』といった、日常語と連続した言葉に聞こえない。強いて言えば、個人の二つ名のような”特別な名詞”を意識して言っているように聞こえる。それくらい話し言葉の中で、それらの単語が浮いていた。
 「元の世界でレベルがカンストして、スキル上げもアイテムハントも装備エンチャントも、することがなくなったので、この世界に呼ばれたとき、二人で来たのです」アークビショップは、その名乗りとよく似た響きの、音節の全てが独立した不自然な単語(註:片仮名英語)を頻繁にまじえて、パラニアとカイトに説明した。「ところが、ここに来て間もなくなのですが、突然、彼の方の姿が見えなくなって。彼はマジシャン系の最高次ジョブのソーサラーを超えた、エクスソーサラーで、他ギルドも含めて天才と呼ばれ、オールスキルマスターの上に禁呪をいくつも使いこなすほどです。最高レベルの冒険者なので、身に危険が起こっている心配は全くないのですが。ただ、まだ合流できずにいます。……人々に話を聞くと、この森に向かったようで、直前に私達、ここに非イベントの常設ダンジョンがあると聞いていたので、そこを目指していると思うのですが」
 パラニアは眉を片方だけ上げて神妙に聞いていた。カイトが元いた世界でだけ聞いたことのある単語もあるが、カイトですら意味のわからない単語が多々あった。が、それらの語を全て飛ばしても、だいたい話の概要はわからないでもなかった。
 「私もアークビショップで、彼と同様にレベルがカンストしているので、ソロで行動しすることもできるのですが、私のスペル属性が通用しない敵もいるかもしれません。今のモブエネミーにもエフェクトが減少していたように見えましたし……なので、手助けがいると心強いです。……一緒に来てくれれば、お礼は充分にできます。私たちは低レベル値のアイテムは要りませんので、見つけたら、全てそちらの物です」アークビショップは何が理由になっているのかなっていないのかよくわからない理由を言った。「それと、彼はエクスソーサラーですから、助け出せば、私が頼めば知っている禁呪も教えてくれると思います。スクロールでもスキルカードでも提供できますよ」
 「そんなものを貰っても使い道はないのだがな」パラニアが困惑をまじえた視線のまま言った。
 アークビショップは、全員の面々をぐるりと見回した。一行のうち3人、老人と双子の少女がなんらかの後衛職のように見える(少なくとも近接職よりはそう見える)以上、かなり意外だったようだった。
 「売ればいいですよ」アークビショップは言った。どうもかれら3人は見かけに反して、魔術の類の知識や技術はまったく無い、と考え直したようだった。「禁呪のスクロールでもスキルカードでも、どこに売っても相当な高額になりますよ」
 「旅にあたっての他の要素もあるのでな。少し相談する」パラニアは言って離れ、カイトと共に、アリスとマリアの近くに来た。
 もちろん、姉妹にもアークビショップとの会話はすでに聞こえていた。
 「協力するの?」アリスは声をひそめて言った。「『禁呪をそこらの誰かに売ればいい』なんて、どう考えてもまともな倫理の持ち主じゃないわよ」
 「いや、たぶんまともだと思う」カイトが言った。「俺のもといた世界では、普通だったんだ。悪人とか非常識とか、特にそういうんじゃない」
 アリスは眉を釣り上げてカイトを見上げた。
 「俺のもといた世界でも、『禁呪を使える』ってのは、それを唱えられる能力だとか、手に入れられるだとかの能力があるって、そのステータスでしかないんだ。使っちゃいけない呪文だなんて、誰も思っちゃいない。禁じようにも、どんな国家や軍隊だって、『高レベル冒険者』を止められるやつはいないんだからさ。いや、……というより、みんな『禁じられていても自分だけは使っていい』とか思ってるんだ」
 「それのどこがまともなのよ」アリスが声を潜めるのを忘れたように刺々しく言った。「あんたの世界の全員がそうだっていうんなら、あんたの元いた世界には頭がまともな奴が一人もいないってことでしかないわよ」
 「全員じゃないよ。冒険者の全員が魔術士とか神術士じゃないし、魔術士とかもそういうのばかりじゃない。……だけど、俺だって魔術士や神術士のことはよくは知らないんだ」カイトは注意深く言った。「何が言いたいかっていうと、冒険者なら、禁呪をそんなふうに扱うからって倫理を外れてるとか人の道を外れてるとか、そんなんじゃない。ごく普通にいる『高レベル冒険者』だってことなんだ。わかるだろ」
 「全然わからないわ」アリスが断言した。
 パラニアは宙を見つめて、顎鬚を撫でているだけである。
 「とにかく、急いでる旅じゃないけど。いたずらに危険に首をつっこむもんじゃないわ」アリスが言った。
 「じゃ見捨てるのか」カイトが言った。「俺は……助けたいと思う。あのアークビショップ、つまり、一緒のエクスソーサラーも、俺と同じだ。たぶん、俺があの黒と銀の男に連れられてこの世界に来たのと同じように……こことは違う世界、たぶん俺が元いたのと似た世界から来たんだ」
 「見ればわかるわよ。カイトの同類だってことくらい」アリスが返した。
 「だからさ……そのアークビショップも、たぶん、はぐれてるエクスソーサラーの方も、俺と同じように、まるで違う世界から来て……俺みたいに、この世界でどうすればいいか、困ってると思うんだ」
 「そうかしら」アリスが冷たく言った。
 実のところカイトは、強力なエクスソーサラーとやらと合流することにも望みをかけていた。カイトの元いた世界と似た世界(ではないかと思われる)から来た優秀な冒険者が、どのようにここで生きているのか、その手がかりが聞けるかもしれない。
 「助けたい……ですよね」
 やがて、マリアが小さくカイトに言った。
 「こんな所で、知らない世界で、一人で不安に思っていて、……ひとりだけ、お互いをよく知ってる人に会いたい、っていうんなら」
 そう言ってマリアは、アリスを見た。アリスはマリアを振り返って、一転してひどく苦い顔になった。
 パラニアはしばらく顎鬚を撫でていたが、
 「わしもあまり寄り道には乗り気ではないが。ことに、どうしても助力が必須ではないように思われる話となるとな。……だが、どうしても助けたい、というなら、その行き先、遺構とやらが本当に危険かどうか、まずは判断してみてもよかろう」





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