第5階層:プロローグ








 ”運命の大迷宮”の第5階層より下(何階層なのかは、どういう数え方をするかによって微妙に違う)には、”デルファイの神託所”があり、オラクル(賢者)が常に控え、寄付を行った者らに神託を与える。オラクルは、ギリシア風のキトンを身にまとった、神々しい黒髪の美女の姿をしていたが、少なくともここの迷宮のオラクルにちぐはぐな所があるとすれば、年は十歳を、身長は4フィートをいくらも出ないくらいのちんちくりんである。そのオラクルは今日も、荘重な石壁と柱、石像と泉に囲まれた神託所の中心で、高い三脚座のてっぺんに足をぶらぶらさせながら腰掛けて、訪問者を待っていた。
 その目の前を、長身の女が通って行った。立派な小盾と、一方でやけにぞんざいな作りの鉄環の鎧、茶灰色の量の多い髪の房を兜のうしろから出している。迷宮探検家、”ワルキューレ”である。ワルキューレは、とぼとぼとどこか力ない足取りでデルファイに入ると、その中の光景に一瞥をくれた。ほとんど無表情で、興味の有無も伺えない。そして、たいして注視もしないまま、出てゆこうとした。
 「おうい、これ、待つのじゃ」オラクルは甲高い少女声でその背中を呼び止めた。
 ワルキューレは足を止め、無言で振り向いた。
 「そなた、前にも来なかったか──いや、というか、何度もここを通り過ぎておるのじゃ」オラクルはワルキューレを指さして続けた。「毎回、上階層から下階層に向かって通り過ぎてゆくのじゃ。覚えておるぞ。上がってくる所、下から戻ってくる所を見たことがないのに、何度も上から降りてくるのじゃ。しかも、装備が毎回違っておる」
 「人違いではないのですか」ワルキューレは素っ気なく言った。「毎度違う誰かでは」
 「神託の賢者をごまかせると思うか! 毎回そなた、同じ者じゃ。だから──怪しいのじゃ。不自然なのじゃ」
 しかし、そこまでは指摘はしてみたものの、続けて推測の類を進めることができず、そのままオラクルは口ごもった。
 「それだけですか」ワルキューレは小さく言い、「それでは」
 「待てい」立ち去ろうとする女騎手に、オラクルは甲高い声を再度かけた。「一体なんなのじゃ。上から下に素通りして──ここに用なのか!? デルファイの神託が欲しいのか!? ならばそう言えばよいのじゃ!」
 「神託は欲しいですが、お金がありません」ワルキューレは平然と言った。「高位の神託を授かるには、まとまったお金の寄付が必要なのでしょう」
 「うむ、必要じゃ。必ずじゃ」オラクルはおごそかに言った。
 「”毎回”、この階層まで辿り着いた時点で、必要な金額の手持ちがあるかどうか確かめます。そして、毎回足りないので素通りするのです」
 「毎回か……うう……」オラクルはうめいた。「だがのぅ……その、目ざわりなのじゃ! 素通りばかりされても……」
 「でしたら、お金がなくとも神託が受けられますか」ワルキューレは平坦に言った。「後払いにしてくれますか」
 「それは……できぬ……」オラクルは顔をしかめ、しかし、決意したかのように胸を張り、「神託と儀式における、厳格な掟なのじゃ」
 「それでは」ワルキューレは立ち去ろうとした。
 「いや……これ……おうぃ、また繰り返すのか!? これからもまた、何度も素通りしてゆくのか!?」
 「騒がしいな。──もっとも、ここじゃよくあることだがな」と、オラクルの三脚座の背後から、のっそりと現れた人影があった。



 それは中肉中背、どちらかというと目立つ特徴のない中年の戦将で、髪も鬚も赤く、風貌は地味でどことなく陰気だった。鎧は着ておらず、衛士の黒の上下の胴着のみだった。
 ──ガネロンは、”運命の大迷宮”にしばしばポータルが繋がる異境、キャメロット城の戦将のひとりだった。”騎士”の探索守護者(クエストガーディアン)とも呼ばれる護衛士らは、若い小姓(ペイジ)がほとんどだが、もっと年配の騎士や将軍もわずかに混ざっていおり、現に、その場でもっと上位の騎士位に昇格する者もいる。ガネロンは、──以前にこのオラクルに語ったところによると──かつては年相応の地位の将軍ではあったが、対立する騎士、オルランドだかコルマックだかのために失脚し、当面は小姓らと同じ任務を買って出ているらしい。何にせよ、”騎士”らの探索(クエスト)に関連して、しばしばデルファイを訪れる、迷宮探検家以外の人物のひとりだった。
 「そのワルキューレの話か。聞くだけでも聞いてみたらどうだ」ガネロンは泉の傍、水路を形作っている石細工の段差に、無造作に腰掛けた。
 「うぬう、しかし、寄付なしに神託を与えることはできぬのじゃ。例え”噂の巻物”相当の低位の神託であってもじゃ」オラクルは口ごもりつつ言った。「厳格な規定に従わないと──さもないと、無料で助言をしまくっていては、たちまち神託所の蓄えが干上がってしまうのじゃ」
 「だったら、金が要らない話だけすればいい。話だけ聞いて、なんなら質問だけでも聞いてみて、その答えが、簡単には与えるべきでない重要な神託なら、回答しなければいい。神託以外にも、話せることはいくらだってあるだろう。旅立ちの『神々の書』の序文に書いてあることだの。迷宮探検家の手引き、『恐怖の迷宮への招待』に書いてあることだの。なんなら、それらはおれが答えたっていい」
 ガネロンは腰掛けたまま、ベルトの物入れから無造作にパイプと煙草を取り出し、オラクルとワルキューレの見守るその前で、パイプに草を詰め、煙を吹かしはじめた。(あまりにも当たり前に行動するので、そのパイプ道具が”観光客”や”考古学者”らならともかく、”騎士”らのキャメロットの時代には存在しないはずの物体であることには、オラクルも気付かなかった。)
 ワルキューレは、そのガネロンのどちらかというと陰気な外見には似合わない、気さくとも言えるその提案と振舞いとに、逆に怪訝さを感じたように見つめた。
 「うろうろするってことは、そんな足取りで迷宮を歩き回るってことは、何もわからないんだろう。この迷宮をよく知ってるやつは、そういう歩き方はしない。方針が定まってるやつは、無駄な行動はしない」ガネロンは煙を吹き出してから言った。「何でもいいから知りたいんだろう。──この迷宮に足を踏み入れたばかりのやつは、みんなそうだ。以前のおれも含めてな」



 「私の出身地は──出身次元界は、上方次元界の《英雄界(イズガード・プレイン)》です」
 ワルキューレは、ガネロンの向かいの石の段差に座り込み、自分の出自をそう語った。
 「この人間の肉体はかりそめです。この”運命の大迷宮”で死んでも、物質の肉体は再構成されます。無論、地上で再構成された時点で、以前に迷宮内で得た能力も持ち物も無くなります」
 「それが毎回、何度も上から降りてくる理由なのか……?」オラクルがうめいた。「下の階層で死んで、地上で生き返って、また毎回潜りなおして来るということなのか……?」
 「外方次元界からの来訪者は、本質が外方次元界にある限り、何度死んだって主物質界の身体は再構成される。神格から、それ未満のただの天上種人間(セレスチャル・ヒューマン)まで全員そうだ。再構成までにどれだけ時間がかかるかは、並行世界(ワールド)や次元界(プレイン)の性質によるな。何日かのことも、何千年のこともある」ガネロンが、オラクルをパイプで指すように向けてながら言った。「というか、おまえも、本体が《祭界山(オリュンポス・プレイン)》にあるから、”大迷宮”で死ねばそうなるぞ」
 「死んだことなどなかったので知らんかったのじゃ……」オラクルが再度うめいた。「いきなりはじめて聞いたのじゃ……その、迷宮探検家の”ワルキューレ”らというのは、全員がそういう生い立ちの連中なのかのぉ?」
 「迷宮の他の者は知りません。ただ、私の知っているワルキューレは皆そうです。全員、アサ神族に仕える半神格(デミゴッドフッド)の持ち主です」ワルキューレはそこで言葉を切った。続けるのを躊躇しているようで、しばらくの間が空いたが、結局続けた。「私のことを言えば、……ある理由があって、神族に仕える地位と、半神の神位を失くして、地上に落とされました」
 オラクルが黙って、ワルキューレを凝視した。その地上に落とされた原因について何か説明があると思ったようだが、ワルキューレはそこで口を閉じたままだった。
 ガネロンがパイプをくゆらせた。
 「それ以来、長い間、地上を彷徨ったり、さまざまな理由で死んでは、ただの人間として生き返り続けていましたが」やがて、ワルキューレは続けた。「あるとき、噂を聞きました。”運命の大迷宮”には、『イェンダーの魔除け』があると。それを守護神に献上することで、不滅の存在となれる、神位を得ることができると」
 ワルキューレは言葉を切った。オラクルとガネロンも沈黙を続けた。
 「本当なのですか?」ワルキューレが顔を上げて、どちらにもともなく問うた。「ここには本当に『魔除け』があって、半神の権能を持つ地位、神族に従属する地位へとふたたび”昇天”することができるのですか?」
 「……大迷宮のどこかに、魔除けがある。それは『神々の書』にも『手引き』にも書いてある、それらの背景典拠から考えて、”噂以上”の話の種、であることは確かだ」やがて、ガネロンがパイプを口から離して言った。「神位を得られる噂については、『手引き』にも書いてある。……ただ、ここに来る迷宮探検家らでも、どれだけのやつらが、それを本気で信じてるかはわからんな」
 「『イェンダーの魔除け』は、第26階層に無造作に落ちているとも、ある魔法使や高僧が持っているともいいます。どれが本当なのですか」ワルキューレの口調は強くなってきていた。「そして──手に入れたら、それをどうすればよいのですか。それをどうやって外方次元界の神に手渡すかについては、何も噂を聞きません。単に、”地方戦士ギルドの長”に持っていけばいい、などという噂もあります。どれが本当なのですか」
 「それは、一部については、高位の神託の方じゃな……」オラクルが言った。「しかも、見つける方法についても、どうするかについても、高位の神託であっても全部の答えが与えられるわけではないのじゃ」
 「『魔除け』がどこで見つかるかは知っているのでしょう。魔法使なり祭壇なり、持っている誰かや場所がわかっているのですか」ワルキューレはオラクルを見つめて言った。「深階層の床のどこかにあるか誰が持っているかもわからない、まったくのあてずっぽうで探すしかないのですか」
 「それは──神託の形でしか与えられぬ」オラクルが戸惑うように言った。「どんな形の情報を望んでいようともじゃ。そして、神託には布施が必要じゃ」
 「あるかどうかもわからないものを探っている余裕は、私にはないのです。私はどうしても──どんな手段を使ってでも、《英雄界》に昇天して戻らなければなりません。『手引き』には、たとえ魔除けの力に関する噂が真実でなかったとしても、冒険談を持ち帰ればかなりの金額になるなどと書いてありますが、私には金銭など問題ではないのです。そんなものを今後収集するつもりもありません。……それでも、どうしても金銭の価値を強要するというのであれば、貴女とは決して相容れない、ということかもしれませんが」
 ワルキューレは左手を剣帯の鞘にかけた。……敵意といえるほどのものではないが、結局のところ北方蛮人の荒っぽさ、それ以上に、初心の迷宮探検者ゆえの見境のなさといえそうだった。
 オラクルは顔をしかめた。両手を握りしめ開き、その開閉の動きを繰り返した。ワルキューレはおそらく知らないが──知っていれば、ここで剣に手をかけたりするわけがない──この童女にしか見えないオラクルには、狼藉者に天罰をくだすだけの力はある。



 が、不意に、ガネロンがパイプの煙を神託所の空間いっぱいに、両者の間に割り込ませるように吐き出した。それから、ガネロンは口を開いた。
 「要は、このちんちくりんに払う寄付、神託に払う金がないのが問題なんだろう。……だがな、仮に金の問題だけ一時的に解決した、横にのけたところで、事態が進むとは思えんな」
 ワルキューレは無言で、ガネロンに視線のみ移した。
 「仮に深い階層に潜れるだけの能力があれば、まとまった金や知識はすでに持ってるはずだ。逆に言えば、手持ちがない、ここまで何度も来るくらい死んで挑戦してを繰り返しても、まとまった手持ちのある状態でここに辿り着いたことが一度もない、というなら、深い階層に進むだけの能力が無い、ということになる。なら、金の問題ひとつだけをすり抜けたところで、やはりその先に進むだけの能力はない」ガネロンは、剣に手をかけたままのワルキューレの視線が自分に向いているのを見て、その剣を指さし、「そもそも、そんな能力しかないなら、その剣を抜いたところで、この場で役に立つとは思えんぞ」
 ワルキューレは無言だが、剣には手をかけたままだった。
 「今の話は、”金銭”を、君が求めている”深層の情報”に置き換えても言えることだろう」ガネロンはそのワルキューレを前に、平然とパイプの煙を吹かしながら言った。「真相や、魔除けを手に入れてからの情報だけあったところで、何も解決しない。目的を達成できないのは、金や情報だけが無いからではない。この迷宮に近道なんてものはないのだ。……いや、全然ないとも言えないが、そこを通るには正面の道を通る以上の経験や知識が要る」
 ガネロンはパイプから口を離し、肩をすくめ、
 「……何度ものたれ死んで何度も最初からやり直す、なんて刻苦試練を、自分は既にさんざん経ている、とでも思っているのかもしれんがな。なにもかもが、まだ足りんのだ、その様子だとな。目的に向かうための能力も、それが得られるまで、何度死んでもやりなおす挑戦もだ」



 ワルキューレはその日も、デルファイを素通りして下の階層へと去った。
 しかし、結局そこから、寄付の金額を持ってデルファイの階層にふたたび上がってくることはなかった。その後、何十日も経ったが、デルファイの神託所に同じワルキューレが姿を現すことはなかった。
 「あきらめたのじゃろうかのう……」オラクルが三脚座の上で、宙を見つめて言った。「いくら死んでやりなおしても、ここに収めるだけの金も、それを集められるだけの能力も得られんかったのかのう……」
 「かもしれん。よその並行世界(ワールド)じゃ半神だの神だのを自称してたやつらだって、この”大迷宮”には最初から到底歯が立たない、なんていくらでもある話だ」ガネロンが相変わらず、石の段差にかけてパイプを吹かしながら言った。「本人が言っていた通りに、どうやっても元の神の座に”昇天”して返り咲きたいなら、諦めずにいつかは辿り着くかもしれないが──だとしても、そうすぐ簡単にはいかないだろう」





 back

 back to index