第4階層:秩序神の贄








 ”運命の大迷宮”のごく浅い階層、第4階層に、その探索の際にはチュール神の寺院が鎮座していた。『寺院』などといっても、この”大迷宮”では、地下室にある神の”祭壇”があり、その神の”僧侶”が常駐する場合、その祭壇の周りなり地下室なりを、寺院と呼称するにすぎない。その他の点では、この迷宮内ではごくありふれた、じめじめした黴臭い石組みで作られた空間でしかない。
 寺院というからには、僧侶によって少しは清められたり整えられている場所も、ないではないのかもしれない。しかしどのみち、この寺院に今踏み入った迷宮探索家、ワルキューレは、今回よりも以前には、祭壇と僧侶を備えた寺院などを目にした例はないので、他の寺院がどうなっているかなど見当もつかない。(『ノームの鉱山の街』とやらには、話によると、そういう整えられた寺院が必ず一つはあるらしいが、少なくともワルキューレの探索はそこには遠く及んでいないかった。)
 何にせよ、ワルキューレは”中立”のオーディン神の信仰なので、”秩序”のチュール神の恩恵は受けることはできない。それでも、寺院に無造作に踏み込んできたワルキューレに対して、そこにいた僧侶の物腰は温厚そのものだった。僧侶はほっそりとした長身の、赤い短い髪のきわめて端正な若者で、祭壇にかかっている布と同じ、青みがかかた薄紫の法衣に身を包んでいたが、ベルトには見慣れない、頭の両端が平らな戦槌(ウォー・ハンマー)を提げていた。無論、槌の聖印といっても、別のトール神の祭式で目にする、戦槌ではない大槌(グレート・ハンマー)とは、まるで別のものである。
 ワルキューレはその僧侶に、儀礼的にここは何の場所かたずねた。もっとも、ワルキューレ自身はオーディン神の信仰だが、同じ祭式に属するチュール神の信仰についてもすでに知悉しており──とある事情から、そもそも神々の座する《英雄界(イズガード)》でのそれを自ら体験している──それは単なる挨拶の延長でしかなかった。しかし、その挨拶がわりの短い言葉をかわすうちに、やがて、このチュール神および僧侶は、彼女の知るそれらとは、何も共通点がないことが次第に明らかになった。
 僧侶は長身で赤毛なところは北方人(ノースメン)に近いようには見えるが、北方の強靭で骨太な人種と同じには見えない。僧侶の法衣や首にかけた聖印や祭壇の紋章は、ワルキューレの知るチュール神の知る素朴な印、長剣の影をかたどったものではない。薄紫地に、立てた戦槌の頭に天秤の載った印であり、おおよそ《英雄界》や北方の戦闘民族の神には見たことがなく、その様式でもない。僧侶はチュール神のことをなぜか『ティール』と発音し、この寺院はティールだけでなく『イルマテル』と『トルム』の三神(トライアッド)を祀っている、と説明した。その2神については、同じ祭式どころか、ワルキューレには全く聞いたことすらない神の名だった。しかし、ワルキューレも、北方祭式の神々が、諸並行世界やら諸次元界で、定命の者らの間でどのような形態で信仰されているかを把握しているわけではない……
 何にせよ、それ以上は言葉をかわすでもなかった。この地下で、互いに利益が存在しないとわかっている場合に、愛想を装ったり言葉をかけたりすることは無意味だ。自身の信仰や属性でない神の勢力とは相容れない。
 しかし、少なくともある程度の配慮を保っている限りは──具体的には、最低限は、祭壇や僧侶には危害を加えたりしなければ──敵対することはないのは勿論、祭壇を利用することすら許してくれる。そう”噂”には聞いている。ただし、利用できるといっても、祀られている神が違う場合は、たいしたことができるでもない。信仰している神の祭壇であれば、生物の死体を生贄に捧げて恩恵を得る儀式や、水を清める儀式が可能と聞いたことがあるが、違う神では致命的な事態になる、とも聞いている。
 ワルキューレは(特に、その温厚な僧侶に妨げられることもなく)祭壇に近づいた。祭壇は、槌と天秤の描かれた布がかぶせられているが、粗削りな石段のようなものにすぎない。ワルキューレは背嚢から無造作に薬や巻物を取り出すと、次々と祭壇の上に置いた。ほとんどは何も起こらなかったが、無色の薬のひとつが、薄い琥珀に強い光を当てた時のようにかすかにきらめいた。それとは別の、ひとつの封をしたままの巻物が、周囲にわずかに黒い靄がかかったように暗く見えた。
 祭壇に静置することで物品が”祝福”を受けているか”呪い”を受けているかを判別できるのは、僧侶の能力でもないし、実のところその祭壇に祀られる『神の能力』ですらもない。祭壇は、諸神が正負のエネルギーを流入させるという形で《主物質界》に介入するために、正負の物質界とのチャネルが開きやすくなっているに過ぎない。正のエネルギーを受けている”祝福”された物品を祭壇に静置すれば、《正物質界(ポジティブ・マテリアル・プレイン)》の影響を受けて反応し、琥珀が混ざっているかのように光が反射する。逆に”呪われた”物品を静置すれば、《負物質界(ネガティブ・マテリアル・プレイン)》から反射を吸い込まれ黒色が周りにかかったように見える。祝福や呪いは正負の物質界の影響であって、神自体の直接の力ではなく、それを与える神が”秩序”または”混沌”などに属するかとは(神々の権能や嗜好による傾向以外の)直接の関係はない。
 ワルキューレはその時も、背嚢に入った物品のすべてを祭壇に置き、祝福と呪いの有無を調べた。呪われた未鑑定の消耗品には興味を失ったが、ひと通り、呪われたものも含めてすべて背嚢に戻した。置いていったところで害があるかは知らなかったが、さすがに呪われた物ばかり寺院に捨てていくのは憚られた(呪われた巻物や不浄な水にも多大な利用価値があるとワルキューレが知るのは、かなり後になってからであり、仮に知っていたとしても、この時点では利用するすべは無かった)。
 背嚢と、ともに盾などの荷物を負い直すと、それ以上言葉をかわそうとせず、僧侶にも祭壇にも背を向けて、ワルキューレは寺院を出ようとした。というよりも、出口に向かって行こうとした。そして、出口の石廊下からまっすぐ寺院に入ってきたものとまさしく鉢合わせした。避ける間もなかった。



 それはこの大迷宮内では、『巨大カブト虫』と通称されている生物だった。しかし、カブトムシ(beetle)という言葉(その単語が厳密に指しているのみならず、連想するもの)はあまり適当ではなかった。ワルキューレの目の前にいるのは、こげ茶色の長めの甲羅を持つ穿孔性甲虫(ボーリングビートル;タマムシ、カミキリムシの類)であったが、その体長はどう見ても人間の身長の倍近くあった。
 ワルキューレは即座に寺院の中を振り向いた。自分にふりかかった目の前の災難以上に気にかかったことがあったのである。仮に自分が後退したり逃亡して、この怪物が寺院に侵入し、僧侶や祭壇を傷つけたら、何か自分にとっても酷いことが起こるのではないか。例えば、寺院が汚されたら、それを防げなかったワルキューレのせいにされるだとか、天罰に自分が巻き込まれるなど。
 それは(通常の人間の世界の)常識から言えばあまりにも考えすぎの、穿ち過ぎた予想だったが、この無慈悲な帰結の常に降りかかり続ける”運命の大迷宮”を探索するようになってからというもの、ワルキューレにはそんな理不尽な災難の懸念ばかりが、事あるごとに強迫観念となって押し寄せるようになっていた。
 しかし、当面、首を曲げただけでは、僧侶の姿は視界に入らず、何をしているかは見えなかった。
 巨大な甲虫は触角と前肢を振り立て、巨大な牙が硬質な音を立てた。こんな生物の生態、何が食物かはわからないが(穿孔性甲虫が虫食いを生じるように、この虫の食物が木質だとしても、こんな大迷宮にそれほど巨大な樹木があるとはとても思えない)ともかくも前進するつもりであり、前にあるものに対してその凶暴な牙を使用するつもりなのは明らかだ。
 長剣を抜いたワルキューレは、その甲虫の体節、頭部と胴の継ぎ目を狙い斬り込んだ。しかし、その大きさにも関わらず小虫とたがわない俊敏さで動く目標を正確に捉えることは容易ではなく、長剣は褐色の甲羅の継ぎ目に食い込みはしたものの、ほとんど表面までしか届かなかった。その直後、横向きに挟み込む巨大な牙が襲った。牙はワルキューレの小盾をやすやすと弾き飛ばし、胴着に覆われた身体に真横に食い込み引き裂いた。ワルキューレはどっと膝をよろめかせつつ、その威力に愕然とした。両手持ちの斬撃武器が横腹にじかに叩き込まれたかと思えるほどの威力だった。ワルキューレはまだ全身鎧も手に入れておらず、防具といえば小盾のみである。第3階層以前に実入りがなく、急いで潜ったのであり、正直なところは、この第4階層に来るのに相応の能力、耐久力すら持っていなかった。
 戦士ら、すなわち自分の身体能力が頼りの(”ワルキューレ”や”野蛮人”といった)役割の者らは、その身体能力を明らかに上回る状況に対峙した場合、必ず死ぬしかない。他の並行世界(ワールド)なら運が良ければ二、三度なら生き残れるような能力差だとしても、無数の回数の危機が繰り返されるこの大迷宮では、運がないと生き残れない行為を続けることは確実な死を意味する。すなわち”運命の大迷宮”では、たとえ戦士らでも、身体能力以外にそれを打開する手段を備えることを必須とする。打開の手段のひとつが、大迷宮に豊富に転がる、かなりの割合で”魔法の力”を持った物品である。ワルキューレは背嚢の中に思いを馳せた──今まで大迷宮で見つかった手持ちの物品はほとんど鑑定も何もしておらず、効果は皆目わからない。しかし、さきほど祝福されているか否かは判別している。祝福された品であれば、なんらかの良い結果になる可能性が高いと聞く。それでも、未鑑定の巻物は嫌な予感しかしない。となれば薬だ。ワルキューレは背嚢からさきほど祭壇で輝きを放った唯一の薬を取り出した。さきに琥珀のようなきらめきを放っていた薬、『祝福された無色の薬』の栓を開け、ぐっと飲み干した。
 さっぱりとした味がした。
 水だった。(なお、この大迷宮では未鑑定の『無色の薬』は常に『水』であるとか、祝福された水にはこの状況とは何も関係ない効果があったとワルキューレが知るのは、遥かに後のことである。)
 次の瞬間、さっぱりとした気分は最悪の気分に転じた。貴重な行動機会を水を飲むことで失い、もうこの怪物の牙に確実にかかる前にできる行動がひとつふたつもない。戦士らしく雄々しく戦うか? 他のでたらめな巻物でも薬でもよいから試すか? 自分の神(オーディン)に祈るか? ……はたして、この別の神の寺院の中で、それはもっと最悪の事態を呼び込んだりはしないのか?
 ほんの一呼吸のみ、あるいはワルキューレが自身の意識から締めだしたに過ぎなかったのかもしれないが、沈黙が降りた。
 そして直後、激しい風唸りが聞こえた。いったい何の音かわからなかった。
 轟音と共に巨大甲虫の姿が床に叩きつけられ、ひしゃげて潰れ、粘液と残骸を床一杯に広げた。
 ほっそりとした長身の赤毛の青年が歩み寄り、怪物の胴体、甲殻の真ん中に食い込みやすやすとめり込んでいた戦槌(ウォーハンマー)を、そこから引き抜くように拾い上げた。そのまま布(古そうだが祭壇にかかっている布と同じ色で、区別はつかなかった)で槌をぬぐいはじめた。この僧侶が、今しがた槌を投げつけたに相違なかった。だが、本当にこれが手投げ槌(スローイング・ハンマー)の威力か。並の両手武器どころか、霜巨人(フロスト・ジャイアント)が巨岩を投げつけたよりも遥かに威力があるではないか──
 僧侶は槌をベルトに戻すと、立ち尽くしているワルキューレを振り向いて言った。「必要ですか?」
 「何がですか……」ワルキューレは低い声で、かなり抜けた言葉、問いを問いで返す語を発した。
 「この怪物の身体です」
 「いえ……」ワルキューレは小さく答えた。”運命の大迷宮”で倒された怪物の死体の活用法、例えば食べる話も聞いたことはあったが、どのように食べればいいのか(こんな虫などをどう食べるかなど、たとえ迷宮探検家にも当然の疑問である)、食べてよいものなのか(毒なのかなど)も皆目わからず、総じて、ここで食べる気にはなれなかった。
 「それでは、この寺院で引き取ります」僧侶の青年は優しく申し出ると、ワルキューレに軽く目礼した。そして、かろうじて体節がひととおり繋がっている巨大甲虫の死体を、寺院である地下室の中央に向けて(わりと軽々と)引きずっていった。
 ワルキューレが茫然と見つめる前で、僧侶は怪物の死体を祭壇の上に静置した。チュール神の僧侶は、首から提げた聖印、槌の上に天秤の載った浮彫のある円盤状のメダルを掲げると、ワルキューレには何か聞き取れない言語を詠じた。
 巨大甲虫の死体は炎を上げて消え去った。それは見たところ、燃焼したという感ではなかった。かつて外方次元界の住人であったワルキューレには察しがついたが、おそらく、祭壇上の《正物質界(ポジティブ・マテリアル・プレイン》へのチャネルを通して正物質に変換された。怪物の身体のうち霊魂以外の要素が正物質に転換され、生じた正の純エネルギーを用いてその生物の霊魂が《上方次元界》へと強制的に送られたのだった。
 聞いたことがあった。大迷宮では、新鮮な死体(おそらく、正物質に還元可能か、または霊魂と離れきっていないもの)を祭壇から生贄に捧げることができ、神への覚えの良さが蓄積されてゆくと。特に大型の、偉大な生き物であればよいと。この殺伐とした”大迷宮”内の信仰でも、特に原始的で荒々しい風習だった。
 ワルキューレは何事もなかったかのように勤めに戻る僧侶と、炎が消えた後の祭壇を、なにげなく見つめていた。
 しかし、不意に、今の光景と、寺院に入ってから今までに起こったことをあわせて、ある恐るべき帰結に気付いたのである。



 しばらく後、やや下の階層にある『デルファイの神託所』にて、デルファイの賢者(オラクル)と、訪れている騎士ガネロンを相手に、ワルキューレは述懐した。
 「チュール神の僧侶は、私を助けたところで何も利益にもならなかったはずです。助ける必要はありませんでした。……私があの怪物に殺されるのを待ってから、やはり槌であの怪物を殺せば、私と怪物と、両方を神への生贄に捧げることができたはずです」ワルキューレは低く、しかしいつになく饒舌に語った。「そして、その上で、私がかつて店の中で死んだときに店主がそうしたように、私の持ち物の全ても手に入ったはずです。たいした価値はなかったとしても。少なくとも、僧侶はあの場で私を見殺しにしても、得になることしかなかったはずです」
 ワルキューレは先に寺院で気付いた帰結をかれらにそう話してから、黙り込んだ。
 「で、どういうことだ」しばらくして、中年の赤い髪と鬚の戦将、ガネロンが、煙の出るパイプから口を離して、口を開いた。「だったら、その僧侶が君を見捨てず、君を生贄にしなかったのは、いったい何が理由だと思うのだ」
 ワルキューレは答えなかった。
 「やはり……助けようとしたのかもしれぬのう」やがて、白衣の黒髪の幼女の姿をしたオラクルが口を開いた。「”慈悲”というものが存在するのかもしれないのじゃ」
 「この迷宮にか」ガネロンが呆れたようにオラクルを振り向いた。「この殺伐とした運命の大迷宮に、そんなものを期待するか」
 「いや、この殺伐とした大迷宮だからこそ、なのじゃ」オラクルが難しい顔で言った。「親切だとか善性だとかいうほどのことはないとしても。誰もが生き残ろうと必死であるからこそ。同様に殺伐を目の当たりにして、生き残ろうとする者との間には、共感のようなものがあるのかもしれぬのじゃ。仮に”秩序にして善(ローフル・グッド)”の神の僧侶にならば、それはありえないでもない、のではないのか……」
 ワルキューレはその言葉にも反応せず、信じたとも疑うとも見えなかった。三者の間にしばらくの沈黙が流れた。
 「それはあるのかないのかはわからないが」やがて、ガネロンが再びワルキューレに向かって、口を開いた。「だが、君を生贄にしなかった理由というやつなら、はっきりしている。秩序や中立の神々には、”同族”を生贄に捧げることはできんからだ。その僧侶も、君も、少なくとも見かけ上の肉体が”人間”だった以上。秩序の神は、僧侶が君を生贄にしても、少なくとも喜びはしない。それが、君が生贄にされなかった最大の理由だな」
 ワルキューレとオラクルは呆気に取られてガネロンを見た。
 「つまるところ、『寺院が秩序であった幸運』に対して感謝すべきなのだ。『僧侶』や『チュール神』に対して感謝するんじゃなくな」ガネロンはパイプから煙を吹き出し、「誰かの善意や悪意、慈悲や無慈悲が、他人の生死を決めるわけじゃない。誰が何をしようが、生きる奴は生き、死ぬ奴は死ぬ。それを決めるのは、特定の神や他の誰かの慈悲なんかじゃなく、この”運命の大迷宮”の巨大なからくり、もとい、この多元宇宙(マルチバース)の歯車の噛み具合、パズルのピースの組み合わせ次第だ」





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