「昨今の数々の合戦に『聖浄の杖』が一本あれば戦況が変わっていた、など
と言う者がいるのだ。何をばかげたことを!」カザ卿は彩からその杖を手渡さ
れるなり、突如として憤激しはじめたように見えた。「ならば、それらの合戦
に上古の半神の武将が一人参戦していれば、とでも言うのか? ──この『聖
浄の杖』とは、遥か神代の大会戦にまで遡る代物なのだ。諸神によって投入さ
れた神代の破滅兵器に他ならぬのだぞ」
彩はあたかも自分に怒りをぶつけられるような突然の店主の激昂にも、別に
動じはしなかった。上(かみ)のエルフでも工芸と知の一党の、狷介にして傲岸
不遜、激しい気性はあまねく知れ渡ったところである。まして、『魔法店』な
どを営んでいる者など(『錬金術の店』に並んで)その中でもことに偏屈を極
めていても、何の不思議もない。この都をはじめとして周辺の土地では、想像
を絶するような習性、性情、倫理、ひいては外観に至るまでの面々が、店主す
らも普通に営んでおり、それらに逐一怯んだり躊躇したりしているようでは、
街を利用することもおぼつかない。
そして、例えば尊大な挙措をとられたからといって、こちらがそれにおもね
る必要はない。原則的に、種族の基本的な性質の差をすべて埋めることは不可
能であり(外観などは最たるものだが)その上で対等にやりとりしなければ取
引など成立しない。それは、店主の側もわかっていることなので、尊大さに合
わせることを要求してきたりはしない。
「大会戦において、諸神と上のエルフの軍勢の征くところ、冥王の軍勢は藁
束を焼くように燃やし尽くされた。至福の聖浄の力もて」カザ卿は、優美なが
ら剛いつくりのその頬のうちに噛むように、それらの伝を口にした。強い口調
ながら、それらには思いを馳せるにつれの畏敬が含まれているようだった。
「その至福の地の光と水の威光がこめられていたのが、この杖に他ならぬ。神
代の強大な戦士らが、数多くその手に携えていたもの。大会戦ののちに現世
(うつしよ)に遺されているとは考えられていないが──仮に冥王の城砦のよう
な迷宮に残されているとなれば、奈落と呼べるよほどの深層に厳重に隠されて
いるこそ本来であろうな」
もっとも、現に彩が入手したように、そうした深層の品がそれ以外の層や要
因で見いだされることは、この複雑と乱雑の極致である冥王の城砦に限れば、
しばしばあることだった。無論、それに伴う問題もあった。
「それほど強力なものなら」彩はカザ卿の手の杖の表面を、さして卿に恐縮
する様子もなく覗き込んだ。「発動もたやすくはないですね」
杖の文字は上のエルフの文字ではあるが、上古どころか神代の年代史にまで
遡る文字である。上のエルフ語の碑文などと一見すると共通点が多いが、字の
配列といい均衡といい音律の複雑さといい、遥かに高度な詩文だというのがわ
かる。そして文字自体が、まるで杖の内側からの光と霊気があふれ出しそうに
常にちらつき、振動しているかのように見える。あたかもこの強力な文字が、
それらの莫大な力を辛うじて杖という小さな物体の中に抑え込んでいるように。
輝くような白い杖の材質は、至福の地の銀の木々の一種なのだろう。
「貴女がいかに巫女として気脈を操(く)る下地があれ──これほどの品をた
やすく発動するには、かなりの修練が必要となろうな」カザ卿は魔道具の専門
家として、しかし何故か見下すふうでもない視線で、彩の外観をなぞりながら
言った。「そして冥王の城砦の中に限れば、この品がたやすく発動できるほど
の伝承と詩の技にたけた野伏が日ごろ踏み入っているほどの深層となれば──
その奥の闇すら払うには、この杖でもいささか心許なかろうな。西方の大気の
加護の力も、足しにはなろうが、さして頼りになるとは思えぬ。……もとより、
その兵のひとりひとりが最初から偉大な神代の軍勢が、戦で大量に使う、それ
だけのために急造された品であることが、よくわかろうものだ」
「売り払った方がいいですか?」店主を前にしてこの言い方は、故意に商談
ではなく、魔道具の知識を求める相談の意味を含んでいる。
「売却するよりは、持っておくべきであろうな。この品に値などつけられぬ。
即ち、この地では、真価に比ぶれば二束三文の金子にしかならぬ」なにやら今
の話の流れのためか、カザ卿は突然に興味が薄らいだかのように言った。「か
といって持っていたところで、役に立つ機などないかもしれぬ。あるとしても、
遥かに後にしかなるまい。──しかしその望みだけでも、売って得られるはし
た文に比べれば、まだ少しは価値があろうというものだ」
冥王の地下城砦の楕円形の広間の只中を、鮮血を床に滴らせふらつく足取り
で横切りながら、彩は杖を引き出した。杖を手にしたまま立ち止まり、小蟲の
群のように押し寄せる洞窟オークと、そこから頭を出す、より屈強な黒のオー
クや、オーガの姿を振り返る。巨大なトロルの姿が一体ならず混ざっているの
も見える。その光景を前にして、杖の文字の刻まれた面を目の前に掲げた。す
でに何度も試していたので、カザ卿の話のような”杖から西方王土のまばゆい
光が湧き出してそれらの大軍が一瞬にして燃え上がる”といった光景は、もう
期待はしていなかったが。
杖に刻まれた、まったく読み慣れない神代のエルフ文字を詠み上げる。音節
のうちのいくつかに差し掛かると、例の輝く文字が杖の中に押さえ込んでいる
至福の地の光と大気が堰を切ろうとするように、杖が手の中で激しく震える。
──しかし、それだけだった。読み終えても何も起こらない。彩のルーンの知
識、素材からの喚起の技術──魔道具の技では、この『聖浄の杖』ほど高度な
発動の成功率は、見当もつかないほど低いようだ。
彩は杖をおろし、できるだけ広間の隅の方に向けて進んだ。足をひきずって
いるのは、腿にオークのぎざぎざの鏃が刺さってから抜けたひどい裂傷のため
だが、左の上腕には同じ矢がいまも深々と刺さり、突き抜けている。
壁ぎわにたどりつく。こんな広間では囲まれるのは避けられず、できるだけ
対峙数を少なくするくらいしかできない。移動のための霊符(スクロール)はま
だ残っているが、この階層自体がかなり狭く、別の中継界を経由する移動呪文
の後に自動的に主物質界(プライム・マテリアル・プレイン)に定着する先がお
のずと限定されるため、今よりも不利な場所──例えば、目の前にいる集団の
真ん中──に飛び込まない保障など何もなかった。
……無意識に石壁に背をあずけると、神酒の小壷を取り出し、蓋をあけてか
ら、いったんベルトに挟んだ。肩の、逆棘のついたオークの鏃を、刺さった傷
口に走る断続的な激痛に耐えつつ、なんとか切り取る。ささくれがないのをも
う一度確認してから、息を肺一杯に吸い込むと、奥歯を砕かんばかりに食いし
ばる。そして、一気に矢を引き抜いた。
脊椎が激しく痙攣に撥ね反り、側頭が石壁に思い切り叩き付けられ、頭皮が
割けたらしく顔に血が流れ落ちてきた。気が遠くなりかけるのがわかるが、必
死でベルトから口を開けたままの小壷をつかみ出し、中身がこぼれ滴るそれを
貪るように嚥下した。『致命傷治癒の薬』の魔力は白光の熱気となって肩口の
疼痛に爆発し、痛みを粉々に粉砕して跡形も無く吹き飛ばし、あとには魔法薬
の材料である黒蓬の、不気味な後味だけが残った。
石壁に身をもたせかけたまま、ずるずると頭が壁を伝ってそのまま全身が崩
れ落ちそうになったが、気を呼び戻してなんとか立とうとする。ふらつく足取
りで、花崗岩の壁に手をついて身を支える。出血と疼痛はおさまったが、活力
が戻ったとはとても言いがたい。定まらない視線をふたたび広間に投じれば、
押し寄せる群との距離はさらに縮まり、耳障りなオーク訛りの怒号の内容すら
も聞き取れる。彩はふたたび『聖浄の杖』を取り出し、心なしかさきより大き
い期待にすがりながら、刻まれた文字を読み上げた。
いくつかの音節にさしかかると、杖が断続的に激しく振動したが、そのまま
読み終えたときも、単に振動がおさまって終わった。……彩は杖をおろし、ベ
ルトの後ろに挟みこんだ。こんなことをする暇があれば、そのたびに弓でも使
ってあの洞窟オークらの1、2体でも減らしておく方が、どのみち時間の無駄
なりに幾分でもましだったと、今度こそ思った。
巫術で傷をふさがず薬を使ったのは、周囲と体内の霊気を温存すべき理由が
あったためだった。彩はこの場所の階層の深さに、部屋の広さと気脈の繋がり
を読み取り、それにあわせて、少し前に[自然の秘術]の手帖から組み上げそら
んじていた同じ呪文の四つの術式のうちのひとつを選択した。白紙の符を取り
出すと、6Bの鉛筆で飾り絵のようなヒエログリフをすらすらと書き付けた。
術式は気脈を手繰るのに応じる生き物を召す<動物召喚>であるが、この霊
素の濃い地下において、たぐられる気脈は冥界の影響に引かれわだかまった黒
の霊気に繋がっており、それを掴むためあえて地下に鎮められた粗い荒霊を選
んで喚び起こす詞を選んでいる。ほとんど呪言の域に踏み入りつつある術であ
るが、かろうじて巫術である。
霊符を打つと、城砦の石と鋼の調度のそこかしこの物陰から、影の内側より
次第にじっとりと湧き出すような姿が集まってきた。猿めいた、筋ばった長い
胴体と肢の目立つ、巨大な蝙蝠の翼を持つ黒い生き物だった。現世(うつしよ)
の獣ながら強い黒の霊素の物陰に集う眷属のうちのひとつである。バタバタと
巨大な蝙蝠の翼が数体分、広間の床を滑るように彩の前に集った。
息つく間もなく、騒々しさと荒々しさと共にオークらが彩をめがけて押し寄
せてきた。が、その隊列はそれらの禍々しい獣の出現を見て少なからずひるん
だ。しかし、背後からのオーク訛りの命令に、かれらはすぐに数体ごとで猿蝙
蝠の妖魔に組んで掛かった。押し包もうとするオークらを撹乱するように飛び
つつ、その動きを遮る妖魔らは、力も頑健さも本来はそれほどでもないが、黒
の霊気を強く受けたその肉体は、この現世では異常なほどに傷を受けにくい。
互いの勢力の見かけに反して、膨大に押し寄せるオークらと数体の妖魔が拮抗
する状態が続いた。
数体目の洞窟オークが倒れ、大柄なブラック・オークが、その欠けた場で猿
蝙蝠の妖魔の鉤爪と切り結んでいた。彩はその出頭めがけて、指で斬り付ける
ように刀印を切りながら、短い気合を放った。
ブラック・オークは不意に胸をつかもうとするような仕草と、痙攣とともに
崩れ落ちた。それを目にした洞窟オークらがひるみ、うち幾体かは後ずさる。
呪禁(暗黒領域)の<呪殺弾>は、その術の名に反して、術者から弾丸の如く飛
ぶのではなく、指した目標に対して裡から霊力の衝撃を及ぼす。間に妖魔を隔
てて、彩からも敵側からも弓の射線は通らないが、この術ならば味方ごしにあ
やまたず相手を撃つ。彩の霊力程度では<呪殺弾>などさしたる力は持たない
が、すでに疲弊したブラック・オークの気力の起伏の隙を掴んで、その命を握
り潰す程度には充分である。
趨勢を見極めつつ、もう二たび<呪殺弾>を顕しオークを屠ったところで、
集中力が尽きた。使役している形となっている妖魔らに霊力を傾けているため、
気力が戻らない。彩は荒い息をつきつつ、もういちど広間の拮抗を垣間見た。
……予想以上の結果となっていた。ここに追い詰められた際は、ほとんど切り
抜けられない状況だと思っていたが、妖魔の現世(うつしよ)での威力と、オー
クのような兵らに対する相性が思った以上に有効だった。見たところ、妖魔ら
もあとそう長くは持ちこたえられないだろうが、それまでにはかなり敵の数を
減らしてくれるだろう。この獣と彩の術に対して、後退しているオークも多い。
あるいは、もしかすると、猿蝙蝠の下級の妖魔だけでこの集団を押し返すこと
さえできるかもしれない。
……彩は状況を見守りつつ、両掌を下げたままゆっくり開閉した。気力が回
復しないので、術は使えない。妖魔の翼ごしでは射線が通らないので、敵を弓
で狙うこともできない。この状況を維持したままできることはなく──ふと
『聖浄の杖』を思い出した。相変わらず発動できる可能性は低いが、他にやる
ことがないならと、彩は杖をベルトの後ろから抜き出し、刻まれた神代のルー
ン文字を詠み上げた。
音節にさしかかるたびに、その文字から光が滲み出し、杖自体が激しく振動
する。別に期待もせずになにげなく発音し終わった後、これまでと違って、音
節のすべてで杖が震えた、ということに彩が気付くか気付かないかの時、並ん
でいる文字が、杖から弾け飛ぶかのように激しく振動しながら輝いた。浮かび
上がった一連の詩文が空間に刻み込まれたように残像を残す。そして直後、杖
本体から、解き放たれたように白光が爆発した。
白い焔の舌のような、あるいは波頭の飛沫が無数の掴み手のような、煌きの
渦を伴う光の津波が杖から周囲に押し広がった。その中心にいた彩の髪が逆立
ったが、正物質界(ポジティブ・マテリアル・プレイン)へのチャネルの開閉に
伴って気流が変わっただけの影響でしかなかった。
しかし、神代の暗い地下世界よりの黒い命を持つものたちにはそうではなか
った。その光の波の端に触れた瞬間に、オークやオーガには装備を残して跡形
もなく気化するものも、燃え上がってからそうなるものも、ドロドロに溶けて
からそうなるものもいたが、ほとんどはその自らの運命を知る暇すらなく消失
した。まさに火に投じられた藁束のように、光の環の広がりに掃かれたように
かれらは消滅した。
……光の爆発が消えてしばらくの間、広間にいるすべての者はその場に立ち
尽くしていた。彩が手の杖をふと見下ろすと、何もしていない時にもルーン文
字が震え、かすかに光を封じていたような様子が、今はなくなっていた。こめ
られた力が当面は尽きているのがわかった。
広間に目を転じた。大半のオークが装備だけを残して消失しているが、寄せ
手がすべて消えたわけではなかった。もともと屈強なトロルやオーガ、隊長格
のオークに、倒れ伏しているものの他に、肌が焼かれて呻いているものなどが、
広間に散在している。
そして、彩を守っていた、まだかなり残っていた猿蝙蝠の妖魔も、跡形もな
く溶けて消えうせていた。影に棲む眷属の、あくまで主物質界では傷つきづら
いが元来さほど屈強でない肉体は、一瞬で気化したに違いない。
残った敵はどれも傷ついている、と思えた時、広間の反対側の入り口から、
オークの首領(オーク・キャプテン)が踏み出してきた。しかも──それはさき
ほどの、彩の肩と腿の矢を放ったオークに他ならなかった。
──期せずして『聖浄の杖』が発動し、敵の大半と、味方のすべてをも一掃
してしまった。起こったことだけならそう言えた。しかし、結果として相変わ
らず目の前の敵は多勢で、彩は傷つき疲弊したままだ。
いや、肩や腿の傷は楽になり、活力は若干ながら戻っている。この地下の妖
気を弾いているような、加護の霊力(<対邪悪結界>)が残っているのもわかる。
「至福の地の光と水」が及ぼした効果なのだろうか。そして、急速に霊力が戻
ってくるのがわかる。召喚していた妖魔が滅びたため、今まではそれらに対し
て与えていた、なけなしの霊力の分だった。
彩は諦めたように息をついた。そして、虚空に手をのばすと、何もない中空
から銀色に輝く刃をゆっくりと引き出した。オークの首領が弓を構えた。体勢
を立て直したトロルやオーガは今しがたの杖の威力にひるみもせず、抵抗者を
圧し潰そうと進撃してくる。彩は虚空から抜き出した『理力の剣』を斜(しゃ)
に構え身を沈めつつ、そのさ中へと駆け込んでいった。
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