イェンダーの徴: 緑の女神とモーロックの聖域








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 リオンは戦士団の一隊を率いて、『賢者の洞窟』を目指していた。剣と銃を帯びた同じ制服の王城戦士団の中でも、先頭の士官であるリオンが際立って若いように見えたが、それは秀麗さと小柄のせいで、特に若輩なわけではない。しかし、その姿もここしばらくの心労と、──この今の道のりの不可思議さへの不安のために、ひどくやつれて見えた。
 周囲の光景が不可解と感じるのは、戦士団の誰にとっても同じだった。深い森の中の小道を抜けると、明らかに光景がそれまでのものと変わっていた。自然の風景が移動に伴って移るのではなく『変わる』というのもおかしな話だが、そうとしか言えない。生えている植物が、リオンらの知っているものとは色も形も違うが、草木の緑が鮮やかで、陰影がひどく濃い。そして、信じられないことだが、空が見たことがないほどに、異様なほどに青かった。
 王城に近い森の中にこんな箇所はない。まだ森の小道から半刻も歩いていないはずだが、陽の当たり方も変わり、足に感じる疲労も重いので、どのくらい歩いたのか、戦士団の誰にもわからなくなっていた。一体王城からどのあたりまで来たのか、そばの畑の農夫らしき者何人かに聞いてみても、”グラストンベリの村の近く”などという、誰も耳にしたことのない地名を答えられるだけだった。国や王の名を聞いてみても、まるで要領を得ない。この時点でリオンや戦士団の不可解は大きな不安に変わった。
 戦士団からも控えめに提案されたが、実のところリオン自身としても、ここで引き返したくなる気に何度も襲われた。しかし、──ここで引き返したとしても、その後にかれらに他の方策があるでもない。現在、かれらが直面している問題、『ルーチェと光の女神の教団』に対しては。
 この場所が得体が知れないものであれば、賢者とやらも未知のものであれば、あるいは未知の提案を持っているかもしれない、という希望もかすかにあった。今、戦士団と王城を襲っている出来事も、不可解な、未知のものであったからだ。
 ふたたび小道はうっそうとした森の奥にさしかかり、深い闇の中を通りかかったとき、そばを横切った黒い影があまりにも恐ろしげだったため、戦士団のひとりが思わず拳銃を発砲した、らしい。らしいというのは、弾丸が出なかったからだ。何度かそれを繰り返した後、その拳銃は壊れて操作を受け付けなくなった。影の怪物に見えたのはただの鹿で、一行には目もくれず跳ねていった。
 小川沿いのその小道をさらにさかのぼっていくと(川そのものも、何か規模に比べて異常に水が深いように見えた)川は洞窟から流れ出ていた。ためらいながらもリオンと戦士団が歩み入ると、洞窟の中は川からの照り返しもあってか全体がほのかに明るかった。洞窟の中は蔦が這っていたが、相変わらず奇妙に緑色が濃く、進めば進むほどに量、色彩ともに豊かになっていく。
 やがて、洞窟は広い空間に出た。広間のようだが半分以上は先ほどの川の水源の泉になっている。
 そこに一人だけ少年が立っていた。いかにもその洞窟のそこの入り口から、誰かが、いや、リオンらが入ってくるのを知って待ち構えていたかのようだった。
 深い青い髪と目の少年で、服装はやはりリオンらには見慣れないものだったが、見慣れない素材の黒い布の上下、ただし、暗色の外套(マント)と、刺繍された紋様が、かろうじて魔術にかかわる者なのではないか、と想像させた。しかし何者だろう。そして賢者とやらはどこだ──リオンは少年を前に、洞窟を見回した。戦士団の何人かもそこに突っ立ったまま同様にしていた。
 「そわそわするんじゃない。黙ってそわそわしてないで、落ち着いてそこにでも掛けて、それから用件があるなら言いなよ」少年がリオンにぞんざいに言って(掛けるのに、ひいては多人数がくつろぐのに適しているとはとても思えない)泉の周囲の岩を指して言った。
 「……突然の話で、済まないと思うが」リオンは少年に言った。「僕らは、賢者のいる洞窟を探しに来たんだが……」
 「この洞窟がそうだよ」少年が答えた。リオンがあたりを見回そうとするのを見て、さらに言った。「他にはいないよ。ぼくが、君が探しているドルイドだ。マール、と呼ぶ者が多いね」
 リオンは少年をまじまじと眺めた。どう見ても10代前半より上には見えない。戦士団士官のリオンも、少年に見えるほど若作りだと言われることがあるが、この相手がこの見かけで賢者だとすれば、人間の若作りという域の問題ではなく、──
 戦士団も不安げに少年と、リオンとを見比べた。信用してよいものか。しかし、すでに決心したことだ。ルーチェの教団に対して、これ以上ことが悪くなりようはない。そして、少なくとも(リオンらのいた王城では)すでに、ルーチェと女神の教団について、その傍若無人のふるまいについて、知らぬ者はいない。それらをリオンの口から誰かに話そうが話すまいが、この上どうなるものでもなかろう。
 「助力が欲しい」リオンは賢者だという、少年に言った。「そうでなければ、せめて助言が。僕らのいる王国が──ある女神の教団に、脅かされている。『緑の光の女神』の教団と、やつらの傍若無人を止める助けが欲しい」
 「話を聞こう」少年、マールは頷いて、そばの岩に腰掛けた。
 リオンはこれまでの数か月にあったことを話した。実際のところ、教団が出現したのはまさにその、ほんの数か月前に過ぎなかった。



 リオンらの世界は、イグドラス(蛇竜神)により作られ、その身と共にあるとされる世界で、世界もその神の名で呼ばれている(そんな説明をしたのは、薄々この洞窟が自分達の住む世界とは違う並行世界にあると、リオンにも気づいていたためだった)。
 ルーチェというその女は、話によるとかつては、王都に以前からあった、そのイグドラス信仰の魔法士のひとりだったという。神聖魔法の使い手の中でも、末席に過ぎなかったらしい。魔法士として、リオン達の王城の戦士団に加入する資格も得られなかった。戦士団の中の、ルーチェと同期のイグドラス信仰の魔法士だったという者の話によると、さらにその前は、神聖魔法でなく精霊使いの技に手を出していたが、これも能力、才能ともにまるで冴えないものだったという。
 そのルーチェがある日突然、王城の郊外にある『古代神の神殿』に居をかまえ、新たな『教団』の法王となった。神殿は廃墟としては昔から知られていたが、イグドラスとは異なるらしいその古い神の正体も、名前もすでに忘れ去られて久しかった。ルーチェらが教団の信仰対象として掲げたのは、古代神と同じか違うかも判明していないが、『緑の光の女神ベール』という、それまでこの世界の一切の記録にもない神の名だった。
 そのルーチェの教団に加わり、神官戦士だの司祭だの高司祭だのを名乗りはじめたのは、ほとんどが王城の戦士団に入れなかった者や、魔術師協会で杖を授けられなかった者、精霊使いに精霊を見る才能すら認められなかった者だった。しかし、かれらが教団に加入すると、女神から与えられる奇跡、神聖魔法として、いずれも圧倒的なほどに強大な能力をふるうようになった。魔術師協会の最高位の幹部らの魔力でも、女神の教団の平信徒の法力、かつて協会末席への入会すら認められなかった者にすら、まるで歯が立たなかった。本人らの才能に依存しないのか、何か別の理由なのか、その女神の力そのものがこの世界の他の力よりも遥かに大きいのか、はっきりした理由はわからない。ルーチェや高司祭らは、特定の属性や性別、特定の他の神の神官でないと決して使えないはずの術も自在に用い、それらも女神の奇跡だと称していた。男性の精霊使いしか使えないことが知られている『ワルキューレのジャベリン』の呪文をルーチェが使用できるのは確かだった。
 「で、その新興の教団が勢力を伸ばして、国教だとか、ひいては王都の重要な位置まで乗っ取り始めた……」マールが指すように指を出して言った。
 「勢力を伸ばす、などというものではない」リオンは低く言った。「傍若無人だ」
 教団は思うがままに振る舞い始め、抗う者を事もなげに力で排除した。それまで王城を支えてきた戦士団や魔術師協会、イグドラス信仰が主な標的だった。王城の戦士団と魔術師協会の力をそぐと共に、特に、イグドラスの信仰や教会に対しては公然と苛烈な迫害を行った。リオン個人として、イグドラス信仰とは何も関係ない一般人にも、略奪や虐待を行っている女神教団員も目撃した。
 「そんなことまでしながらも、『光の女神』が力を与え続けているということは、自分たちは全て正しいのだと」リオンが低く言った。「そんな奴らを、僕らは、いや誰も阻めない。このままだと、やつらが王都どころか他の国や、世界を脅かすようになるのも誰も止められないだろう」
 「話はわかる。けど、その『脅かされてる』ってのは本当に君たちの方なのかい。弱者に対して、力で弾圧だの略奪なんてのは、征服や体制転覆をしようとする輩なら、その過程で誰だってやることだね」マールはリオンに言い、「かれらからすれば、才能のない劣等生の怠け者、と決めつけられてきた者らからすれば、イグドラスの信仰の正統だの、君たち優等生、戦士団の勇者たちだのから、日々見下されたり虐げられてきた、なんてことはないのかい。かれらの方からは、自分たちを認めなかった世界の方が悪い、自分たちがそんな世界を変えてやるのは当然の権利だ、そんなことを主張してたりは?」
 賢者の言葉に、戦士団の何人かが落ち着かなげに身じろぎした。そのうち一人は、リオンに何か耳打ちしようとした。が、
 「そうだ。彼らは現にそう言っている。ルーチェが信者たちを焚きつける時の言い分も、まさにそれだ」やがて、リオンが言った。「だが、……これは、僕らの立場で言うことでしかないことは承知しているが、聞いてほしい。あの女神と、教団のやること──力をつけたことも、その力でやつらがやっていることも、──明らかに、『自然なこと』じゃない。僕らの世界の普通のできごとじゃない。せめて、突然現れた女神は何なのか、本当にイグドラス神より古くて強い古代神なのか。あのルーチェ達の異常な力が何なのか、一体何が起こっているのか。それを知りもせずに、やつらに滅ぼされるわけにはいかない。せめて、その解明に力をかしてもらえないだろうか」



 マールは考えるように顎に掌を当てた。が、何か悩んでいるようではなく、言葉を継ぐ間を置いているだけに見えた。
 「女神とやらについては、だいたいは君が感じている通りだろう」やがて、マールがリオンに言った。「そいつは──ベールとやらは、君の世界のイグドラス信仰とかの類じゃないし、その前から君の世界の歴史にいた古代神とやらでもない。君の世界に本来、存在するものじゃない。多元宇宙のうち、別の並行世界の存在だ。そして、女神というより、別の神話の、オカルト神以前のもの、とでもいうべきか」
 リオンはしばらく押し黙ってから、
 「知っているのか。その女神……そのものは、どこから僕らの世界に来たんだ。何者なんだ」
 「それは実のところ、詳しくは探り始めてる、カードを揃えてる最中ってところだ」
 マールはリオンの背後の洞窟、通路を示し、
 「そこの洞窟を開けておいたのは、ひとつは、君たちが来ることを期待してさ。そっちの世界にこの洞窟、君たちの噂でいえば『賢者』か、その話を流して、君たちみたいに、詳しい事情を知る者がそちらからやってこられるように。……それから、もうひとつの目的は、こちらからも人を送り出せるようにさ。そっちの世界に行って、事情や解法を持ち帰って来られるように」マールは通路を指さしたまま、「今の段階では、ちょうどその者達が、それを持ち帰ってきたところに過ぎない」
 その言葉が終わらないうちに、マールの指さした洞窟の入り口に、ふたつの人影が歩み入った。革装の女盗賊と、尖った帽子に外套の童女だった。





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