イェンダーの徴: デルファイの隅の人馬像







 8

 オラクルが、食料(オレンジ)などを入れるために持って来た『保存の鞄』を、停止した青銅像の頭からかぶせると、巨大な像は(異次元界に収納する仕組みに従って)鞄の中に収まった。のびたままのリゼを引きずって、アルテウスとオラクルは『アリアドネの糸』を発動し、その並行世界(ワールド)をあとにした。
 なんとか息を吹き返したリゼに、オラクルの信仰呪文による若干の治療を施した後、一行はアルテウスの『アリアドネの糸』の機能によって、まもなく”運命の大迷宮”へ、デルファイの神託所のある階層に戻った。
 『保存の鞄』を、デルファイの神託所の隅まで持って行ったところで、青銅の人馬像を鞄から取り出し(取り出してから像を運ぶのは大儀だからである)その場、据え付けた場所で、できるだけ手入れした。リゼとオラクルとアルテウスは、あの川辺での格闘の名残である像の泥をぬぐった。おそらく、像の中の方にも泥水が詰まっているはずだが、それは今はかれらにはどうしようもないし、必要に応じて後で(あるいは、こちらの並行世界(ワールド)の《祭界山(オリュンポス)》で、タロスを作ったのと同じ工芸の神にでも頼んで)なんとかするしかない。
 「あ」
 像の後ろの方で泥をぬぐっていたリゼが、不意に声を発した。
 アルテウスとオラクルは思わず手を止めた。霊液(イコール)が残っていて像が再び動き出したか何かの非常事態かと思ったのだった。しかし、そのまま何の動きもなく、リゼからも何の言葉もない。アルテウスとオラクルは像の前面から両横に回り込み、リゼの隣に並んだ。
 そして、リゼが見つけたのと同じものをそこに見出し、同様に沈黙した。
 「足が5本ある」リゼが沈黙を破り、今となっては口に出すまでもないことを言った。
 像の後半身にはもう一本、完璧なまでの足があった。つまり、合計で前後5本の足があった。
 「どういうことじゃ……」オラクルがうめいた。「これはケンタウロスではない、何か馬とは別の生き物と合成された化け物ではないか! この像はケンタウロス以外の化け物を模したものであったのか!?」
 「いや、おそらく、あの並行世界(ワールド)は──あの世界におけるケンタウロスらは、全員が5本足であったのだろう」アルテウスが低く言った。
 リゼははたと思い出した──あの世界で通りすがった隊商も、走り回っていた巨像も、砂煙のためと、足の動きが速すぎて、足元をよく確認できなかったこと。隊商の移動速度が、アルテウスの測定で普通の馬の正確に”1.25倍”、つまり”4分の5”であったこと。そもそも巨像は、常にこちらに向かって突進してきており、ほとんど前面しか見えておらず、後ろの方の足が見えたことがなかったこと。像を持ち帰る時は、リゼは気絶しており、オラクルが急いで保存の鞄に放り込んだとのこと。いずれも、足の数をゆっくり確認する暇などなかったこと。
 「やはりわしのせいか!? 4本足の世界をきちんと想像して移動しなかったからなのか!?」オラクルがのけぞり、頭を抱えた。
 そういえば、『アリアドネの糸』を用いて別の並行世界に転移するときに、オラクルは足を多く、足を多く、と繰り返しつぶやき、4本”以下”とは一度も言っていなかったことも、リゼは思い出した。
 「それは世界に行ってみるまでわからぬことだ」アルテウスが静かに言った。「4本足の世界についたか、5本足の世界についたか、実際に着いてみるまで、そして確認するまでは。そして、確認する折などは無かった。止むを得ぬことだ」
 沈黙が流れた。
 「それはよいが、どうするのじゃ!!」オラクルが頭を抱えたまま言った。「アスクレピオスの徒弟の連中は、5本足の化け物の像など納得せんのじゃ! もう薬師の徒弟らが訪れるまで日にちが残っていないのじゃ……」
 三者はふたたび、5本足の人馬像を前に立ち尽くした。



 「あの、下層から戻ってきましたが、神託は」
 と、いきなり三者の背後から声がして、皆振り向いた。
 かれらの後ろには、かなり長身で茶灰の髪を兜の後ろで束ねた、鎧姿の女性が突っ立っていた。例の(前の像を壊した)ワルキューレだった。神託は後日与えるので、後でデルファイに戻ってくるようにとアルテウスが追い返したものだが、本当に戻ってきたようだった。装備はかなり返り血や傷などが増え、他の持ち物も増えているが、前と大まかには同じだった。
 その装備を上から下まで一通り素早く眺めてから、リゼが素早くワルキューレに歩み寄った。
 「すまん、ちょっと借りるぞ」
 間髪入れず、ワルキューレが腰に下げていた”つるはし”を取ると、数回素振りをくれた。そして、青銅像に向けてふるった。
 青銅像の見事な造形の足のうち一本が砕け落ちた。
 リゼは抱きつくように両手で像を抱え、滑らせてぐるぐると回した。そしてやがて、デルファイの入り口から見ると、砕けた像の足の付け根だった継ぎ目がちょうど見えないような位置を見つけた。像を壁際に押し込み、その割れた部分を壁に向けた。まさしく盗賊の隠蔽の技だった。
 リゼは神託所の中央にあとじさり、オラクルと共に、じっとその像を見つめた。
 リゼもオラクルも、いくら眺めても最初から4本足にしか見えないことを繰り返し確認した。
 そして、どっと疲れを感じたのか、リゼとオラクルは並んでその場にへたるように座り込んだ。おそらく、わざわざ回り込んだ上で、この重たい像を動かしでもして観察しない限りは、決して露見することはあるまい。



 ──と、その俯いたリゼの耳に、がちゃりという音が聞こえた。
 リゼが顔を上げると、ワルキューレが(リゼが今その場に落とした)つるはしを回収していた。そして、今の青銅像の隣の隅にある、別のケンタウロス石像に──おそらく、中にあるかもしれない魔法書目当てで──今にも振り下ろそうとしているところだった。
 「やめろォ!!」オラクルが飛び上がった。
 「いえ、今あなた達が現に壊していましたし、こちらの像も壊してもいいということでは……?」ワルキューレがつるはしを振り上げたまま、当惑したようにオラクルを振り返って言った。
 「とにかくやめるのじゃあ!!」
 リゼもオラクルも、そしてアルテウスまでもが、ワルキューレの上に折り重なるように組み敷いた。





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