イェンダーの徴: アーティファクトの騎士







 4


 黄色い鎧の者も、”虎の鉤爪のリゼ”も、今も息がある最後の一人、藪の中にうずくまっているシグワルト皇太子に歩み寄っていった。二人とも、皇太子を捕縛しようと何かの準備をしているようにも、他の手段で捕虜にしようとしているとも見えず、それぞれ血刀を収めようともせずに近寄ってくる。
 「……抵抗できなくなった者も殺すのか!」相手らのその姿を認め、満身創痍の皇太子は、自分の流れる血の中から見上げ、愕然として言った。
 「さっき無抵抗のやつを一人刺しちまったからな。それがもう一人増えたところでたいして変わらんし、ってのは、まあ置いとくとしてだ」リゼが先ほどの皇太子との話し合いと全く同じ調子で言った。「いや、別に命まで取るってわけじゃないんだ。帝国だとか、あるいはこの次元界(プレイン)とか並行世界(ワールド)には、もう二度と戻れないってことにはなるかもしれないけど」
 皇太子は無言で目を見張り、かれらを見上げ続けた。女盗賊が何を言っているかは全く意味がわからない。しかし、意味がわからないまま、自分の思い通りだけを通そうとして、それが今まさにどのような結果を招いたかを考えれば、このあとも文字通り想像を絶するような──目の前の結果、繰り広げられた光景が、まさしくそれ以前の想像を遥かに絶しているように──死ぬよりも酷い目にあわされるとしか考えられなかった。
 「さっきの話からすると、あんたには、私達の話は頭から理解しようって気がないし、これ以上詳しく話しても無駄な気がする」リゼが言った。
 「残念ながら」皇太子の正面に立った黄色の鎧の者が、くぐもった兜の奥から、変声前の少年のような声で言った。
 「残念ながらね。てことは、このまま帰したら、傷が癒えたら私達にまた同じことをするだろうし、将来、私達以外の誰かがそういう仕事でこの並行世界(ワールド)にやって来たら、同じように邪魔しようとするだろうからな。あるいは、降伏の条件で今後は邪魔しない、とか言い出すつもりかもしれないけど、『力がある自分は何でもしたいと思ったことをしていい』なんて言うやつが、将来その条件を守るとはとても思えない。……無理にとまではいわないけど、どちらかというと邪魔される可能性は止めといた方が後でやりやすい」
 「理解できていないのはお前達だ。帝国の、人々の命運をだ」皇太子は荒い息の中から言った。「今、お前達が英雄たちを、”探し出す者たち”を殺したおかげで、将来かれらが解決できるはずだった危機、かれらによって救われるはずだった命が、大量に失われたのだぞ。……私を殺せば、遥かにそれ以上のものが失われるのが、わからないはずがあるまい。私の立場と才覚で保っていた帝国も、他の国との均衡も崩れるぞ。無辜の民が大量に苦しみ死ぬのだ。それが理解できないのか」
 「うーん、世界の運命だの勇者の持つ物だのより多くの者を救うだの、特別な誰それだけにだけはそれに相応しい何かがあるだの、そんなのに何の意味もない、全てはその物を手にした奴が決めるべきだ、さっきそう言ってたのはあんた自身じゃないか」リゼは皇太子の壮大な多国規模・世界規模の語りに、何ら感銘も受けた様子もなかった。その口調はむしろ、いささか脱力したかのようだった。「今、”あんたの命”が、手にした奴が決めるべき物、その状態にあるって、それだけじゃないのか。……いや、実際は、そのあんたがさっき言ったことが正しいかどうかは、私にはわからないんだがな。実のところ、力がある者だからとかじゃなく、あんたが『”自分”だけが特別扱い』されたいってことに、自分で言い訳をし続けてるだけって気もしないでもないんだが。いや、私にはどっちでもいい話なんだが、とりあえず、言った本人のあんたくらいは、前に自分の言った通りになるってことで、ここはひとつ納得しとくのはどうだ」
 シグワルト皇太子はあとじさるように藪の中を這った。まったくもって絶体絶命だ。──が、皇太子は身体の下の剣を確かめた。無数の戦場や英雄との探索行を経験してきた自分は、こんな程度の逆境から一気に逆転したことなど、いくらでもある。
 皇太子は地についた手の下の泥を手に収まる限り握り込むと、正面の黄色の鎧の者の、目めがけて投げつけた。帝国の偉大な覇者、”黒の皇太子”が、こんな手を使うなど、予想できた者はこれまで一人もいない。案の定、泥はまともに当たり、高山の湿気を帯びた大量の泥の塊は、兜の面頬を覆いつくすように黄色の鎧の者の視線全面を遮った。
 ほとんど同時に、皇太子の閃電のごとき諸手突きが、黄色の鎧の者の首元めがけて奔った。
 黄色い小手が一閃し、その皇太子の剣をあやまたず捉え、叩き折った。
 皇太子は両膝をつき、折れた剣を手に茫然とした。……黄色の鎧の者が、最強の冒険者達を撫で斬りにしたのも、兜への一撃に意識を保っていたのも、自分を藪の中に吹き飛ばしたのも、無論あながちその実行が不可能でない実力はあれど、相当に偶然が関係していたとしか考えられない。しかし、今の突きに対するこの動きは、視覚に少しでも支障がある者が、どんなに偶然に助けられようが、決してできるものではない。あるいは、──視覚以外の何か、である。しかし、いったい何があるというのだ。
 黄色い鎧の者、ホロウナイトは、さきほどの皇太子の剣でひしゃげてひどく凹み、さらに今は一面が泥で覆われている兜に手を伸ばすと、歪みのせいで引っかかって大儀そうではあったが、なんとかそれを取った。
 兜の下には何もなかった。
 首の根本の方から、麦わらや木の枝のようなものの切れ端が数本、互い違いに伸びているだけだった。
 シグワルト皇太子の喉から恐慌の絶叫が迸った。中身のないゴーレム、アンデッドナイト、そんなものはいくらでも見てきた。それらの光景と何が違っていたのかは彼自身にもわからない。強いて言えば、今までは、どんな恐ろしい姿の者が現れようとたやすく一蹴してきたからこそ、どんな予想できない姿のものが現れようが、恐れる必要などないと思っていた。すべての者は力で屈服させられる以上、どんな姿だろうが、あらゆる外見は見掛け倒しだと思っていた。しかし、ここまで追い込まれた状態でそれを目にしたこと、信じがたい自分の破滅の原因になるものが、今までの自分にとって納得できるものではなく、そんな代物である、という事実を認識したその瞬間に、その物に対する恐怖が皇太子をわしづかみにした。
 『うつろなる騎士』のその姿から、皇太子はやぶを必死に這いずって逃れようとした。手足もきかず、肘と膝と腹であがき続けるような、こんな逃げ方ではすぐに追いつかれるに決まっている、恐怖が真綿のように喉を締め上げてゆく。その恐怖がさらに動きをぎこちなくするのに相反して、四肢を動かそうと急く恐慌は膨らみ続け、傷つきこわばった肘と膝が無駄に泥の中を掻き続けた。
 「あれっ、PJ、首どうしたの? あの木と藁のやつ」コーデリアの声がした。「ていうかさ、首がないんなら今の、避けなくてもよかったんじゃないの?」
 「兜にひっかかるから、ここ最近は首を外してるんだよ、コーディ」どこからその声が出ているのかはともかくとして、鎧の中から、変声前の少年のような声がした。「あと、避けたのは、これ以上兜が歪んだら、兜が外せなくなると思ったんだ」
 「いいけど、人前では外さない方がいいんじゃないのか」リゼの声が聞こえた。「いや、兜もだがな、どっちかといえば、首のことを言ってるんだぞ」
 それらの声を遥か背後に遠くに聞きながら、皇太子はあらんかぎりの恐慌の声をわめき散らしながら、暗黒の中をあがき続けた。わき目もふらず一寸でも遠くへと進み続けた。
 そして、その突き進む行く手の泥土、支える足場が不意に途切れ、崖から滑り落ちた。──しかしその瞬間も、五体を遥か奈落に転落させつつも、かれの絶叫の中に含まれていた恐怖は、自らの命運の落墜の絶望に対するものはなく、ただ、『うつろなる騎士』に対するものだけだった。



 シグワルト皇太子が意識をとりもどしたのは、霊峰の中腹にある例の宿屋だった。目覚めた皇太子に、まだ宿屋に逗留していた錬金術師のエルフィアが、幾つかの話をした。薬草を集めていた自分が、崖の下の皇太子と、英雄たちの死体の破片の幾つかを見つけたこと、ここ数日眠り続けていた皇太子の手当をした話などだった。
 だが、エルフィアが皇太子に丁寧に説明したのは、それはどちらかといえば、敬意や親切からではなかった。自分の見たものを話した上で、明らかに落下による以外にも原因がある皇太子の酷すぎる傷や、”探し出す者たち”の末路に対して、(病人に対して穏やかな態度ではあったが)エルフィアはかなり仔細に問いただそうとしていたためだった。なぜかといえば、仮に、皇太子と英雄たちをこんな目にあわせたもの(かれらがこの世界最強の存在であった以上、人間どころか既知のあらゆる怪物でもありえないが)が、今もこの山に潜んでいる、それだけの危険があるとすれば、宿屋の人々やここを通る人々のために聞き出しておかなければならない、そのための当然の帰結に過ぎなかった。
 だが、皇太子は断続的に取り戻す意識の中から、その説明に対しては反応も返さず、問いに対してもうわごとをうめくだけで、エルフィアの問いに答えることはできなかった。
 しかし、また数日が経って、なんとか意識を保てるようになった皇太子は、エルフィアに逆に問いただした。
 「私が眠っているその日の間に、何か起こりはしなかったか……」
 「その……何かの怪物の襲撃などですか……」
 「違う。天変地異などの類だ……」
 エルフィアはその問いに戸惑ってはいたが、驚いた様子はなく、心当たりはあるように言った。「天変地異、というほどではありませんでしたが……うまく表現できない現象なのですが」
 「何が起こったのだ」皇太子は床に上体を起こし、どういうわけか熱っぽくエルフィアに懇願した。「表現できる限りの言葉で、その現象を話してくれ」
 「殿下が宿をあとにしてから、その次の日だと思いましたが、大きな地鳴りのようなものがしました。……今もたまに続いているでしょう」
 言われてみれば、宿の板組や木の寝床にも、ごくまれに断続的なかすかな振動が伝わってくる。最初は風鳴りかと思ったが、風にしては底から来るようであり、地震にしては弱く、小刻みすぎた。
 「地震……というよりも、天地の両方が、……天と地を構成する歯車が、何かきしんだような」エルフィアは、かなり曖昧な比喩に踏み込むことに対して、あえて留意しながらも、結局ほかの表現が思いつかず、口にした。「歯車が、何かに引っかかって、震えて、……引っかかったものが遂に砕けて、また動き出したような……」
 皇太子は目を見張り、エルフィアがたじろぐほどにそのかんばせをまじまじと見つけた。
 再び、わずかな振動が感じられた。
 皇太子はゆっくりと、だが強く、両手で頭をわしづかみにし、そして、激しい慟哭の叫び声を上げた。
 「本当だったのだ……! やつらの言った通りだった。本当に『歯車』だったのだ……!」
 エルフィアはしばらくその様子を茫然と見守った。
 「探していた宝物が……三つの伝説の武器が、やっぱり壊されてしまったのですか」エルフィアは、皇太子の慟哭の声が小さくなった頃を見計らい、その悲嘆の理由を低く問いかけた。「それとも”探し出す者たち”を死なせたことにですか……」
 「ちがう」皇太子は震える声でつぶやいた。
 「力が及ばなかったことにですか」エルフィアは今も山頂にいる怪物、かもしれないものを念頭に言った。「自分以上の”力”の者に……」
 「ちがう!」皇太子は哀切のような声で叫んだ。「あれは”力”などではない……あの者は『歯車』だったのだ……巨大な”仕組み”なのだ……ひとりだけが”力”などいくらあっても、何の役にも立つものか!」
 皇太子は額を掌で抱えて、俯いた。
 「からっぽだ……何もかもからっぽだ。何もかも、人の心も欲も命も魂もない、からっぽの機械……あれが世界の、いや、やつらは『多元宇宙』だと言った……すべての宇宙の動く仕組みそのものによって動いているのだ……」皇太子は慟哭の中から、喉の奥から発した。「そんな巨大な、宇宙の仕組みを、自分だけが自由にできる力があるなど……自分は力があるからどうとでもできるなど……そんなものを、自分だけの欲求や都合でいいように思い通りに動かそうなど……できるわけがない……」
 皇太子は体躯からすべての力を失ったかのように、倒れ込むように床に仰向けになった。
 「頭も首もない……命もない……」皇太子は、あとはうわごとのように、大半は聞き取れない言葉を発するだけだった。「全ては、からっぽの、ただ歯車のからくりだ……」
 エルフィアはしばらくそれを見守ってはいたが、やがて部屋を出て、うしろ手に扉を閉め、その場をあとにした。シグワルト皇太子は、正気と共に様々なもの──おそらくは、これまでに人間として持っていたものの大半を永遠に失ったのは明らかだが、それがどのように起こったのかは、エルフィアを含めて余人が知ることはなく、おそらく手助けできることも何もないのだろう。
 何か、また何かの響きが宿を震わせた。それはあたかも今も続く皇太子の悲痛な慟哭の響きそのものかとも思わせたが、その実は、今も続いている、天地の何かの鳴動だった。エルフィアはそれを感じ取ろうとするように見上げた。天地に何が起こっているとしても。願わくば、この皇太子からは多くが失われたようには、世界からは、あるいは、彼の言うには宇宙からは、失われたものだけではないことを。





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