イェンダーの徴: アクエイターの世界








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 「このような深みを訪問に来られたのは、それこそ同じほどに深い思索あってのことだとは思いますが」女神はアルテウスとリゼに、視線を泳がせるようにしながら言った。「お望みのものは何でしょう」
 「この生き物どもに関してだ」アルテウスが、やさしげな女神に対して相応とは思えない、驚くほど耳障りな乱暴な声で言って、黒い水の流れの中を指さした。「この場所が、これらの”水ごけの怪物”どもの出所であろう。このアクエイターどもを放っているのはそなたか──おそらくは別の者であろうから、何者なのかを言うがいい」
 「その生き物が何か?」女神は穏やかな目のまま、アルテウスに目を移して言った。
 「気に入らぬ」アルテウスはえらく理屈の通らないことを言った。「その生き物が、ではなく、むしろ、そのようなものを放つ者の意図がだ」
 「すべて、あるべくしてあるものです」女神は穏やかに応えた。「定命のものなら受け入れなさい。それは世界の節理、海の節理で、同時に、女神の意思です。すべての世界のあらゆる海の支配者、女神ネプチューンの心なのです」
 「いや、鎧を劣化させるカバもどきが神のおぼしめしだとか言われたって」リゼがつぶやいた。こうした、同じような言葉を反復する宗教の偉い人の言葉を理解するのが、リゼは昔から苦手だった。
 「多くの賢者が語っています。現実の海でも、概念上の海でも、海がすべてを飲み込み、すべての形あるものが深みに飲み込まれて、朽ち果てて形を失う。それが世界の最も根本的な節理であると」女神が優しくリゼに微笑んで言った。「すべてが朽ち果てる海に飲み込まれる、それは世界の原理と共に、私の心そのものでもあります。私はネプチューン、あらゆる世界で名が知られる、すべての幻想世界、未来世界を含めてあらゆる世界の海に君臨する女神なのです」
 「《混沌の諸次元界(アナーキック・プレインズ)》の神々の座にそなたのような者はおらぬ」歌うような心地よい女神の声を、アルテウスは耳障りな声で遮った。「わたしは《祭界山》のアルテウスだ。そなたが自らその名で称するような、我らの頂く海神の一族でないことは知っている。ポントスとオケアノスとポセイドンのすべての神統に、そなたの名はない」
 「ネプチューンの名がそれらに属さないなどと?」女神は穏やかに、だが、どこか蔑むような目をアルテウスに向けた。「そんなこともご存じない方が、《祭界山》の一族を名乗られますか?」
 「そなたの名が”ネプチューン”などであるものか。そなたの名は、スィールの娘ニックリールの玄孫娘、ネフタナだ」アルテウスは巌のような腕と指で、水色の女神を指して言った。「そなたは僻地のトゥハ・ナ・クレム・クロイクを放逐された、水精のはしくれの一体にすぎぬ、レブマのネフタナよ」
 リゼはアルテウスを怪訝げに見た。……現状のすべての洞察(おそらくは《祭界山》の賢者(オラクル)らの)や探索が、最終的な結論に達し、その結びとして、アルテウスがこの場所に来て、こう宣告したのだろうか。あるいは全くそんなことはなく、ごく一部の根拠、例えばアルテウスの自身の出身次元界の知識をもとにした、大半がこの場の思いつきなのだろうか。それはリゼには判断がつかなかった。なにしろ祭界山人(オリュンピアン)のやることだ。
 しかし、変化は起こった。
 「《祭界山(オリュンポス・プレイン)》の出身者が来たんじゃ、これ以上この姿を続けても仕方ないわね」何の前触れもなく、ネプチューンと称するその者の姿と、声色が変わり始めた。「でも、こんな所にやって来なければ、私のこの姿を見ることも、私の力を身をもって受けることもなかったのよ」



 まっすぐ流れていた髪は、乱流のように癖が強くなり、やがて合流して動きやすそうな房に編まれた形にまとまった。髪と目は、薄い水色から濃い紫(リゼのそれよりはだいぶ赤みが濃い)に変わった。ゆったりと流れていた長衣状の服は、いつのまに、氷海に棲む大型の冷水魚のような光沢のある、身体に密着した黒に近い装束となった。
 「私の真の名や出自を知っていたところで、あなた達に出来ることは何もないわ」ネフタナは深い紫の目で、リゼとアルテウスを見下ろしながら言った。「あらゆる世界に起こっていることを受け入れるしかないのよ」
 「起こっているって、その、鎧が劣化することか」リゼが思わず言っていた。
 「さっき言った通りよ。それは何のいつわりもない真理。金属、文明の成果、活動の証、ちっぽけな人間どものやること、それらが全部無秩序に、あらゆる世界のあるべき姿に戻るのよ」
 「んで、あらゆる世界の終わりか。カバもどきを使ってそれって、いささか回りくどくないか」リゼがげっそりとした顔で言った。
 「まさか。世界の、人間たちの末路なんてどうだっていいわ。”均衡が無秩序に傾く”ことで私達、無秩序に属する神々は力を得られるのよ。あらゆる世界で勢力が増大するの、際限なくね」
 「もう一度言う。《混沌の上方諸次元界(アナーキック・アッパー・プレインズ)》にそなたのような神性はおらぬ。そして、レブマのネフタナよ、その言い分が確信させる。そなたを操っているのは、デーモン・プリンスだ」アルテウスが再度、ネフタナを指さして言った。「この《塩の準元素界》から水ごけの怪物らを生み出した、多元宇宙(マルチバース)を無秩序に傾ける恩恵をじかに得られるのは、混沌の《奈落界(アビス・プレーン)》の諸侯だ。そなたが自力でこのような現象の影響を利用できるはずもない」
 「影響を利用するってその」リゼは、水面から背中を出してゆらゆらと周りを泳ぎ回っている水ごけの怪物の集団を見回し、「何かその、デーモン・プリンスが、鎧を溶かしてそこから何かのエッセンスを取り出して利用するだとか、そんなような話なのか?」
 「その因果が繋がっている、ということだ。おそらく”イェンダーの徴”を介してのものだ。”徴”を介して並行世界同士の構造が繋がっている、故に、その世界らの変化から恩恵を被るのだ」アルテウスが、ネフタナの方を見たまま、リゼに応えた。「”何者かの所業”で、無秩序が拡大した、均衡が傾いた、という因果があれば、無秩序に貢献した者、均衡をその手で傾けた者、多元宇宙に大きな影響を与えた者が、それに応じた勢力の増大を得る。……すなわち、半分はそこのネフタナの言った通りなのだ。しかし残り半分については違う。均衡を傾けている者も、その影響で勢力を増大している者も、混沌の諸侯だ。水精のひとりが、その因果を作れるわけも、均衡の傾きを利用できるわけもない」
 リゼは突然合点した。これは《混沌の次元界(アナーキック・プレイン)》同士の抗争──無秩序の上方次元界、《祭界山》の諸神や賢者らは、つまるところ、諸々の主物質界の住人らのためを思って、”鎧を劣化させる怪物”を根絶したかった、などではない。かれらは無秩序の下方次元界、《奈落界》その他の勢力拡大を感知し、それを阻止しようとしている、というだけなのだ。そして、その勢力を伸ばそうとする混沌にして悪の大君主のいずれか、神性かデーモンかディモダンドかの仕業であることも。ネフタナも、そして自分達も、それらの抗争の手先の駒でしかない。リゼは魔法使マールへの義理立てという動機が一致しているにすぎない。アルテウスはどうかは知らないが。
 しかし、動機が何であれ、リゼもアルテウスも目の前の自称女神とかいう怒れる水精をなんとかしなくてはならなかった。
 「そなたに制御できるわけがない。《奈落界》の君主らのうち誰の仕業だ」アルテウスが水精に言った。「その君主の名を言えば、命は助ける。この施設と影響を、各並行世界から正確に取り除く方法も言えばだ」
 「あなたが? 私を助ける? 面白いわね」ネフタナは嘲笑った。「何ができるっていうの? 私に対して一体何ができるかも皆目知らないのに」
 「いや、むしろその話に乗った方がいいんじゃないか」リゼは、なんとか筋道の抜け道を探り当てようとしながら、ネフタナに向かって言った。「背後にいるやつに義理を立てたところで、私らの侵入を許した時点で、間違いなくデーモン・プリンスなんかには使い捨てられるぞ。だが、少なくとも、アルテウスに従って《祭界山》に逃げ込めば、デーモンは手出しはできない。あんた自身が悪魔とかじゃなくて精霊とかの一種だってんなら、《祭界山》なら余所者だってそんなに悪いようにはされないだろ」
 「その場その場で言うことが変わる《混沌の諸次元界》の連中に、黙って両手を挙げて命を預ける馬鹿がどこにいるのよ」ネフタナの声と目の色が突如鋭く、刺々しくなった。「《祭界山(オリュンポス)》も、《英雄界(イズガード)》やアルフハイムのヴァン妖精神たちもそうだわ。デーモン・プリンスに対して義理も信頼もない以上に、そいつらなんて一寸たりとも信用できない」
 ネフタナは紫の目に、それらの名に対する憎悪を激しくきらめかせ、
 「そんな必要もない。あなた達どころか、《祭界山》の大軍が来ても、レブマやトゥハ・ナ・クレム・クロイクの軍が来ても、私は止められないわ。今となっては《奈落界》の大君主たちも、私には手を出せないんだから」
 ネフタナのその根拠は何なのだろう。リゼに急に疑念が沸いた。本当にアルテウスはこれも想定のうちなのだろうか。
 「協力しないのならば、そなたを止めなければならぬ」リゼの不安をよそに、アルテウスは槍を構えた。「《奈落界》の君主に利益が流れ続けるのを、阻止しなければならぬ」



 アルテウスに倣って、リゼも骨製の剣と短剣を抜いたが、持ち慣れないその刃物に、思わず頼りなさの一瞥をくれた。記憶にあるよりもさらになまくらというか、刃こぼれが酷い気がする。
 が、リゼは何か異常を感じて、再度その骨の刃を凝視した。見間違いか、あるいは見覚え違いかと思ったが、そうではなかった。見る間にも、骨の武器の刃こぼれが進んでゆく。鉄ではない骨や牙までもこうなるのか。……が、そう考える間に、リゼの手の骨の剣も短剣も、その場でぼろぼろと粉のように崩れ落ちた。
 アルテウスも目だけ動かし、構えたままの槍の穂先を見つめた。何か巨大な動物の牙でできていた穂先は、やはり崩壊し、跡形もなくなってしまった。
 「あばーーーっ!!」そのアルテウスの背後で、リゼが奇声を上げた。
 「何ごとだ」アルテウスが槍を見たまま言った。
 「服が、留め金が崩れて、その、ぜんぶ下に落ちた!」リゼの叫び声がした。「来るな見るな振り返るな」
 「そんな暇はない」アルテウスは振り向きもせず、生真面目に応えた。
 「留め金は象牙だったんだ、でも金属じゃない!」リゼの驚愕の声が続いた。
 「骨も牙も、カルシウムっていって、実は”金属”なのよ。どうせあなたたちみたいな『ファンタジー世界の住人』なんて、そんなことさえ知らないんでしょう?」ネフタナが嘲笑を浮かべながら、意味のわからないことを言った。「私はこの世界も、もっと科学が進んだ世界も、全ての世界の海を支配してるって言ったでしょう? 私はそういう世界の知識だってあるのよ」
 今までは”水ごけの怪物”の力で、骨や牙まで、しかもここまで急速に崩れたという話はない。そもそも水ごけの怪物の能力は、鉄に対してさえ、鎧が壊れることあったが、武器やその他の物品に(他の並行世界の”錆の怪物”とは違って)少なくともこれほど急速な影響を及ぼすことはなかったはずだ。水と負の、塩の準元素の次元界ではそうなるのか。いや、《塩の準元素界》だからではない。この次元界の沼地を進んでくる間には、少なくとも剣や槍の形を保っていたのに、今この場で急速に劣化した。今、この場に来たからだ。この祭壇や聖域なり、あるいはこの女神なりは(誰か別の者からその力を授かっているのであれ、そうでなかれ)この準元素の力を操り、大幅に加速させることができるようだった。
 「どうする気?」ネフタナは肩をすくめた。「さっさと別の次元界(プレイン)に逃げた方がいいんじゃないの? 長時間ここにいれば、あなたたちの体内の骨や歯まで崩壊するかもしれないわよ。どのくらい保つかは、私にもわからないけどね」
 「阻止すると言ったはずだ」アルテウスが答えて、槍(だった木切れ)をその場に放り捨てた。
 「だから、何をする気なの? 魔法の武器もなしで。女神に対して──あなた達が、そんな目にあってさえ、まだ私を女神だと認めようとしないなら、水精とやらでもいいけど──神霊や精霊、力のある”次元界来訪者(アウトサイダー)”は、最も強力な魔力を持った武器の類でしか傷つかないのよ。そこらの修行僧の拳や、石槍や木の棍棒ていどに施せる印なんかでも、私を傷つけるのはとても無理」ネフタナは言い、「あなた達のどっちかが、呪文でも試してみる? 女神に定命の者の呪文が効けば、だけど」
 リゼにはいささか魔術の心得はあるが、かつて地下迷宮で魔法耐性がどん底に低いオーガ女をのけぞらせたのが会心の出来栄え、といった程度で、とても水精の”魔法抵抗力(マジック・レジスタンス)”を貫通できるような腕ではない。神霊などの次元界来訪者には、真の大魔法使、神話的な者の呪文しか効かない。したがって、ほとんどの場合は非常に強力な武器を用いるしかないが、ここではその武器が崩れ去ってしまい、武器さえも封じられているのだ。
 「言ったでしょう。金属の武器を使えなければ、《祭界山(オリュンポス)》の軍勢が大挙して襲って来ようが、私には傷ひとつつけられない」ネフタナは無邪気な娘のような微笑みを浮かべ、アルテウスを見下ろすように、「それどころか、さっきあなたが言ってたデーモン・プリンス自身、それ以上の《奈落界》の君主の誰が来たって、もう私には手出しできなくなったのよ。愚かにも、この絶対の力を私に与えてしまったおかげでね」





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