煉獄は常闇の森







 4

 「何……何を言ってるの!?」アリスが、目を見開いて叫んだ。
 「制御して逆転させるとか……今、この男が、制御できなかったって言ってたんだぞ!?」カイトすらも制止した。「天才で禁呪使いだとかいう、このエクスソーサラーだって、このルーンを制御できなくて、力に飲み込まれたんだぞ!?」
 アークビショップは、カイトを冷たく振り向いた。
 「どうせ、レベルやアビリティスコアやスキルのパラメータの数値が、『強さの全て』だとでも信じ込んでるんでしょう」女司祭はカイトに言った。「強さは『心の持ち方』よ。『心』は数値だの技術だの経験だの、理屈の全てを超えるのよ」
 アークビショップはルーンに近づいた。「それに、彼が試した時と違いはあるわ。今度は、彼はひとりじゃない。今は私の『愛』があるわ。『愛』があれば、システム上の数値の上での確率なんて、何の意味もないのよ」
 アークビショップのその口上に、アリスは眉を上向きの弓なりに大きくつり上げたまま、口を半分あけて絶句した。
 《やめろ》魔狼が身じろぎし、低いうなり声を発すると共に、その傍らに立ったままのマリアが口を開いた。《このルーンは決して制御できない。諦めてくれ、私を放っておいてくれ。お願いだ、君のためだ──》
 アークビショップはその声を発したマリアを見下ろした。
 「うるさいわ」そして、拳をふるってマリアを真横に殴り飛ばした。「それ以上、彼の声を盗まないで」
 どっと倒れ込んだマリアを、カイトは受け止めたが、目を閉じたマリアのその身体は完全に力を失い、手足は投げ出されたままだった。
 「パラニア!」アリスが鋭く老人に叫んだ。
 「いや、わしは止めんぞ」が、おそらくアリスの要望と期待に反して、パラニアはアークビショップにそう言った。「自分で判断したことを行うがいい。たった今、この男から聞いたこと。たった今、自分がその手で行ったこと。それをもう一度考えた上で、行うというのならばな」
 アークビショップは、全くパラニアやアリスの様子に頓着することなく、魔狼と床のルーンにさらに近づいた。魔狼の眼前に立ち、その目を見て、何かを読み取ろうとしたのかもしれなかった。しかし、やがて足元のルーンを凝視し、上に手をかざした。
 ルーンの文字がすべて、(カイトの目には)電飾か何かのようにまばゆく光り、周囲の魔力が高まっていくのが感じられた。
 魔狼の姿が震えた。苦悶に悶えているようにも見えた。やがて、その姿が内側から膨れ上がるように変化してきたのが見えた。カイトはマリアを抱え、魔狼からあとじさりつつ、その姿を見つめた。全身が内側から膨れ上がる力に耐えきれないように、骨や腱がおぞましい音を立て続けている。魔狼からは、今までの低い吠え声とは異質の叫び声を思わせる耳障りな叫びが漏れ始めた。
 アークビショップが手をかざすルーンの光がさらに強くなった。獣のその変化は、大きさの変化だけでなく、次第に獣としての形態の変化に及び始めた。さらに魔狼の苦悶の絶叫が漏れ、獣の後ろ足が太く強くなり、『人型』に近い形状へと次第に変わってゆくように見えた。
 カイトは目を見張った。成功したのだ。レベルがカンストしたアークビショップとエクスソーサラーのふたりだ、やはり成功しないわけがない──
 膨れ上がった獣の顎が開いた。巨大な地獄の入り口のような顎がカイトの視界を圧して広がり、そして、その大顎が、目の前にあったアークビショップの首と肩から上とを丸齧りにした。
 ばりばりと骨が砕ける音、肉が引きちぎられる音がして、巨大な顎が噛み合わされ、咬まれた部分が食いちぎられた。血の噴水と共に、頭と肩のないアークビショップの身体が、石床に投げ出された。咬んだ分を咀嚼すると、顎から血を溢れ出させながら、獣の巨大な姿は耳をつんざく咆哮を上げた。その声はすでに先までの悲鳴ではなかった。目は赤と黄にらんらんと光り知性のかけらもなく、明らかに野生の獣そのものだった。いや、野生の『獣』などではなく、完全に自然ならぬ『半人半獣の化け物』だった。アークビショップにより発動させられた『妖術の丘』のルーンは、完全に暴走し、かつてエクスソーサラーだった存在を飲み込み、さらに際限なく膨れ上がっていた。巨大な獣は屈みこんで、残りの新鮮な肉を貪り食い始めた。
 残った一行は急いで段差よりも上、獣のよじのぼれない円陣の外側に飛び乗った。
 パラニアが、力を完全に失っているマリアの口元に掌をかざした。数言、カイトにはまるで聞き取れない声をささやいた。マリアは刺激物をかがされたように身じろぎし、瞬きして、不意に正気づいた。
 「どうなったの……」マリアはアリスやパラニアを見上げて言った。「あのひととは、狼とは、うまく話せたの? なんて言ってたの……」
 そして、岩の段差の下、ルーンの円陣の中に目を移した。今も膨れ上がり続けているかのような黒い獣の姿、明らかにルーンに飲み込まれて以前の魔狼とすら別の巨大な姿に変容した姿、その知性が跡形もなく砕け散った獰猛な体躯に、マリアは驚愕に目を見張った。女司祭だった肉塊を噛み砕く音がそこに続いた。
 マリアは両掌で、顔を覆った。
 「手伝わなければよかった」マリアの涙声が漏れた。「ずっとおねえちゃんが止めてたのに。そんな術は止めろって、ルーンにも触れるなって……最初から、あのひとについていくなって。余計なことをするなって……言う通りにしていればよかった。こんなことになるなら、最初から何もしなければよかった」
 アリスは俯いたが、やがて、緩やかにマリアの両肩を掴んだ。──さらにしばらく躊躇してから、アリスは言った。
 「私たちには、あの二人とも、どのみちそれ以上は助けられなかったのよ。彼を元に戻せたわけでもない。彼女が、彼を戻すか何かのために、この先にも何をするか、止められたわけでもない」
 そして、一言ひとことを思い出すかのように言った。
 「あのひとが言っていたわ。獣として破滅する前に、最後に人と会えて、人と話せるようにしてくれて、とても感謝するって」
 マリアは姉を見上げた。
 「マリアに感謝していたのよ。マリアはあの人のために、できるだけのことをしたのよ」アリスは低く言ってから、マリアを引き寄せて目を閉じ、「おそれないで、できる限りのことを考えて、できる限りのことをするしかない──」
 獣はさらに巨大な咆哮を上げ、その声は広大な岩室に激しく反響し、石組すらもびりびりと震わせた。カイトは自分の立つ石床の足元さえも不安になった気がした。半獣の怪物は、すでに魔狼どころか『巨狼』とすら表現できる姿に膨れ上がっていた。目の前の段差の檻などは、一跨ぎで乗り越えるか、ひいては石柱の封印などはたやすく蹴散らせるほどの威容に見えた。
 ……アリスは自分の裾を掴んでいたマリアの拳に自分の手を置いてから、黙って立ち上がった。背を伸ばして佇んだ姿に、どこから流れるともない気流に、濃紺の外套と長い赤毛がはためいた。


 アリスは黙って、老人に問うように見上げた。
 「ここは封じるぞ」パラニアはアリスの視線に応えて言った。「わしは石組を解放する方をやる。おまえは閉じる方だ。──今まで見聞きしてきたこと、今あったことをもう一度思い出せ」
 アリスはためらう様子もなく、石組に刻まれた、恐ろしい黒の言葉のルーン──エクスソーサラーが囚われた、深入りすれば飲み込まれて『妖術の丘』の者らに囚われるもの──の前に立った。カイトにはアリスのその手の動きはよく見えず、何かの言葉も巨獣の咆哮にかき消されて聞こえなかったが、両手を広げ、いくつもの刻印の上に指を近づけ、いくつかを飛ばし、石組の上を滑るように手をかざしていったように見えた。
 カイトの目には、刻まれたルーンが何か蠢いたように見えた、と見る間もなく、ルーンの存在する岩々が内側から震え、ついで何か陽炎でも起こしたようにゆらいだように見えた。石の数々がぐらつき、地響きと共に内側にかしぎはじめ、狭まった。石組の中心にいる巨獣の姿が、そこから這い出そうとするように膨れ上がって見えたが、石がそれを遠ざけていくようだった。
 濃紺のローブの長身の老人が、水松樹の杖を高く掲げ、その姿はカイトの視界一杯を圧した。広間一杯に長大な影が伸び、その姿は、あたかも眼前の巨獣よりもさらに巨大に膨れ上がったように見えた。
 そのローブの巨大な姿は、手にした杖の石突を、目の前の床に叩きつけた。鮮明な紺碧の輝きが炸裂し、視界すべての岩に輝く亀裂となって縦横に駆け巡った。見えない天井の上の方から、いや、石の広間一杯に轟音が響き渡り、広大な広間は突如、それよりさらに巨大な拳か鉄槌に真上から叩き潰されたかのように、見る間もなく崩落を始めた。
 この世のものとも思えない巨狼の咆哮が雷のごとく地を揺るがしたが、それは即座に炸裂と崩壊の轟音に飲み込まれた。
 「走れ!」パラニアが叫んだ。アリスと、マリアを抱えたカイト、続いて老人が岩屋の出口めがけて駆けた。道の前後とを問わず崩壊していく天井に、カイトには道が際限なく続くかと思われたが、思ったほど奥まっていなかったのか必死だっただけか、やがて四人は木漏れ日と緑の中に出た。
 岩屋を出て、カイトは振り返った。既に崩落は収まっていたが、岩の通路は完全に埋め尽くされ、跡形もなくなっていた。他の土が高くなった箇所はあまり崩れた様子はない。まるで、念入りに通路だけをすべて上から潰したかのようだった。
 今、何が起こったのだろう。もともとこの岩室がとても古かったのと、地盤が緩んでいたか何か、そんなところに、おそらくは自然の地震が重なったのだろう。そこに、あの大きな獣が暴れたためもあって、古い岩屋が崩れてしまったのだ。カイトにはそう想像する以外にできなかった。あの獣のあまりの信じられないほどの巨大さも、アリスが触れた刻印と石組に陽炎や震えが起こったように見えたのも、ましてや──カイトは、陽の下に出て安心しきり、凝った肩を回して慣らしているパラニアを見上げつつ──もともと長身のこの老人が、一瞬だけあれほどまでに巨大な姿に見えたのも、闇の中の光の加減にすぎなかったに違いない。
 「あの狼も死んだのか……」カイトは崩れ落ちた通路の方を、ふたたび見やりながら言った。
 「いや、ここから出られはしないし、あるいは身体も朽ちるかもしれんが、滅んではいないだろうな」しかし、パラニアがそちらを見ながら言った。「『妖術の丘』の巨獣は、並大概のことでは滅びはせんよ」
 「あれで生きているって」カイトは一度言葉を失い、「じゃ、あの化け物と災いは、ここにずっと残るのか……」
 「もうあの女のように下手に触れる者がおらんことを祈るしかないな」パラニアは肩をすくめるように言った。
 カイトは、岩室だった方を凝視してから、パラニアを振り返った。
 「あんたなら、倒せたんじゃないのか……」カイトは、かつて見たこの老人の剣技を思い出していた。「いっそ、息の根を止めた方が、エクスソーサラーだったあの男のためでもあったんじゃないのか」
 むしろカイトは、パラニアがその選択をしたものだと思っていた。
 「あるいはな。だが、戦うことが、これより安全だったとは思えん」パラニアは一転、飄々とした口調から、低い声で答えた。「あれはすでに、『妖術の丘』の支配下にある化け物だ。わしらがあの獣に対して直接に力づくのわざをふるえば、わしらの存在や、それ以上のものが、『妖術の丘』の連中へと筒抜けになったろう。特に、奴と一時つながっていたマリアはな」
 カイトは、マリアを振り返った。マリアはアリスに支えられて、目を閉じていた。
 「そして、実のところ、やつと戦っても取り除けたかはわからん。……あの巨狼はすでに、『あの男』ではない。カイトは、獣の身体にあの男の精神が入っていた、とでも思っていたのかもしれないが、そうではない。おそらくは逆だ」パラニアは、さらに声を低めて言った。「少なくとも、あの女が”黒の言葉”のルーンに触れてから後の状態を言えば──あの男の身体と生命と精神が利用され、獣につくりかえられた上で、その中に、悪霊の魂が入っていたのだ。あの巨狼の本質は、原初の精霊の魂で、あの男の要素はもはや、”表面の殻”の部分にすぎん」
 カイトの背筋を冷たい汗が流れた。それは服の中でも乾かず、次第におびただしく吹き出して背を流れ、震えが背筋から、全身に伝わった。カイトは身体が意に沿わず、その場に膝をついた。
 「すでにやつは『獣に姿を変えた人間の男』などではなく、『上古の巨狼の悪霊』そのものかもしれん。もしそうだとすれば、もうわしなどには到底太刀打ちはできん。無論、他のどの賢人の力であってもな」
 カイトはうずくまったまま、岩屋の方を再び見た。「あの中には、人をそんなものに変える呪文が放っておかれていたのか。今も」
 「もう使い終わった後だろうからな。『妖術の丘』の軍勢には、そういった巨獣、おそらく事故でできたあの男などよりも出来のよい獣の群が、すでにいくらでもいるのだ」
 カイトは愕然とした。今見て来たものと、告げられた闇の軍勢、この”鉄獄”の世界を覆いつくしているものの存在感とに、心底打ちのめされた気がした。
 膝をついたまま、落ち葉の重なった暗い森の地面を見つめながら、カイトは言った。
 「何もできないのか……俺達。力がなければもちろん──もし、力があったとしたって、あんたくらいの力があったって。戦うことも、抵抗することもできないのか」
 「そうなのかもしれん。……が、目を開いた上で、最善を尽くせば、最低限大事なものだけは、失わずに済むくらいのことはできるかもしれんからな」
 そう言って、パラニアはアリスの方を見た。
 アリスとマリアは落ち葉の上に座り込んでいた。疲労からか、眠るように目を閉じてアリスに寄りかかっているマリアを、アリスは背後から支えていた。アリスはその存在を確かめるように、肩から腕を回して、自分も目を閉じていた。





 back

 back to index