煉獄は常闇の森







 2

 アークビショップと名乗る女司祭と共に、4人が森をしばらく歩くと、彼女の探していた岩屋は間もなく見つかった。下生えの緑や落ち葉の合間に、まばらに古い石の土台や柱が見え、そこに岩屋の入り口が地下に向かって口を開けている。墳墓か、でなければ、神殿か何かに使われた施設のように見えるが、古すぎて構造自体がかなり朽ちており、ここからではどちらかはわからなかった。
 「これ自体は、たぶんずっと昔の住人が捨てたものだろうけど」アリスが土台の大きな石に目をやり、ついで、岩屋の入り口を怪訝げに覗き込みながら言った。「その後に何が来て潜んでいるか、わかったもんじゃないわ。自然の獣なり、『その他の何か』なり」
 しかし、その言を気にした様子もなく、アークビショップはアリスに一瞥もくれずに、岩屋に入っていった。アリスが何か言おうとしたが、マリアが小走りに続き、カイトが続いた。アリスは眉をひそめて、不安げに足早に後を追った。何も助言しないパラニアが、殿に続いた。
 岩屋の中はかなり広い通路で、地下の岩室にありがちな黴の臭気や湿気が少なく、それは充分に広く気流が吹き抜けているせいか、別の理由なのかはわからなかった。アークビショップは躊躇いなく呪文を発して(アリスが、言霊のある言葉自体を唱えるだけでも危険、といつも言っているのとは対照的に)カイトも元の世界で見たことのある光の精霊を呼び出した。光球に岩屋の中が赤々と照らし出されると、足元やその他の周囲の様子に注意を払う様子もなく、足早に進んでいった。マリアがそのあとを追った。
 通路の奥に入り、ちょうど入り口の光がほとんど見えなくなった頃だった。マリアが、何かに気付いて、足を止めた。
 岩屋を組み上げている、大きな石組の表面の一か所を見下ろした。マリアのはしばみ色の瞳が見開かれ、光球のつくる光と影にきらめいた。そのままマリアはしばらく見つめていたが、
 「あっ……」
 不意に目を閉じて、俯き、振り払うように首を振った。うしろのアリス、カイト、パラニアが順に足早に駆け寄った。
 「大丈夫」マリアが俯いたまま言った。
 「全然大丈夫じゃないでしょう」アリスが低く鋭く言った。
 その言葉に、カイトは目を薄く閉じているマリアを見下ろした。立ちくらんだか気が遠くなりかけたといったように見えるが、さきまで歩いていたのにかなり突然に思える。
 パラニアが、マリアが見つけた石組の一か所、そこに刻まれた文字を見下ろした。やがて、パラニアは文字に顔を近づけすぎず、杖の先で、しかも杖を文字からも少し離して示した。
 「文字は灰色エルフのルーン文字だが、記されている語は”黒の言葉”だ」老人はそこで声をひそめ、「無闇に口に出してはならん」
 「黒の言葉ですって」アリスは小さく叫ぶように言ってから、なぜか不意に気付いたように口を押さえ、「そのルーンは、口に出すどころか、触っても、読んで意味を頭の中でじっと考えることさえ危険なのよ」
 「そんなばかな……」カイトは思わず言ったが、アリスはパラニアと異なり、その文字の方からも顔をそらし、見ようとさえしなかった。
 アークビショップはその数歩前に立ち止まって、億劫そうに振り返っていた。探す人の心配のために先を急ぎたがっているというのもあるだろうが──気にかけるほどの事が(マリアのこの様子に対しても)起こっているとは信じていないようだ。呪文でも、攻撃呪文や治癒防御など、”直接に自分が行使できる”、”戦闘に役立つ”、”能力的に有利になる”もの以外には、根本的に関心がなく、重要性を感じられないのかもしれない。なぜかといえば、以前はカイトもそうだったからだ。
 一方、マリアは俯いたまま、額に手を当てた。
 「自然の動物……変容……束縛……」マリアはそこまで、思い出すように言った。「そんなようなのだった。エアニルさんに教わったことに似てる」
 アエニル、『茶の賢者』のことは、カイトもアリスやパラニアから聞いたことならあった。アリスに言わせれば、色と変化の大家、というと聞こえはよいが、動物や鳥や草木にまぎれこんでいる変人であるという。マリアはそっちに弟子入りした方がよかったんじゃないか、とも。しかし、実はこの世界に来たばかりの時、オークに囚われていたカイトを最初に助け出したのも、その茶の賢者だった。
 カイトは俯いているマリアをのぞきこんだ。アリス自身が、自分よりもマリアの方が霊感、共感などの才能はかなり高いと言っていたことがあった。
 「石柱そのものよりも、この文字のルーンの方がかなり新しく刻まれたものだな」パラニアが言った。「おそらく、『妖術の丘』の術師らが、この施設を利用して新しく呪を施し、戦力を増強するのに利用していたのだろう」
 「それ、この場所がかなり危ないってことじゃないの」アリスが強く言った。
 「今もそうかはわからんよ。かれらからも廃棄され、かなり長いように見える。直接の危険は去っているかもしれない一方で、探すだけのある呪文や知識が、ここに残っているかもしれない、ということでもあるな」パラニアは、そう言って、アークビショップを見た。
 「彼は、エクスソーサラーは、それらのスペルやスキルを求めてここに来たのかもしれませんね」アークビショップは答えてから、「……『妖術の丘』とは何ですか」
 アリスはパラニアを見上げた。どこまで口にしてよいか、その判断を委ねた、ということらしい。
 「闇の者らの国だ」少し間を置いて、老人が言った。「この森の南部にある砦、軍隊の名でもある。戦力として、森の獣を操ることがある」
 カイトはパラニアから『妖術の丘』について、『指輪の幽鬼』の第二位と第七位が統率している城塞だと、前に聞いたことがあった。しかし、パラニアはいつも、そういった説明、ひいては冥王、その直下の妖術師である指輪の王、指輪の幽鬼といった呼び名すらも、滅多に口にすることはなかった。双子の姉妹らにも、闇の濃い場所では決して口にしてはならない、と念を押していたことがある。
 「そうですか」そのパラニアの簡単な説明に──”闇の者”だの”森の獣”だの、カイトにしてみれば、元の世界でも『冒険者』としてはありきたりの聞き飽きた言葉しか含まれていないような説明であるためか──アークビショップは注意を払うこともなく、それ以上聞き返すこともなく歩き出した。


 さらに通路の奥に進むにつれ、小型の獣の砕けた骨や、食われた骸がまばらに見えるようになった。古いものも、見るからに数日前といったごく新しいものもある。
 「自然の獣同士の捕食かもしれないけど」アリスが、先を歩く二人に遅れないよう足を止めずに、それらを見下ろしながら言った。「外から入ってきた獣が住み着いてるのかも。魔狼でなくとも、危険な獣がうろついていていてもおかしくないわ」
 が、そこでアリスは、奥へと足早に歩み続けるアークビショップとマリアの後ろ姿を検めて見て、「危険だとわかる要素が増えていってるのに、どんどん進み続けるのはどうなのかしら」
 「でも、進んだおかげで見つかってるじゃないか」カイトが言った。「今、この場所が危険だってことがわかったのも、進んで、岩の文字を見つけて、危なくてもそれを読んだからだろ」
 「うっさいわね。あんたが進んだわけでも見つけたわけでもないじゃない」
 「すでに知ってるものだけとか、考えることだけに頼るのは、同じくらい成功できないんじゃないかってことなんだよ」カイトは独り言のように言った。それはべつにアリスに反発しているのではなく、成功する道を探っている、それがわかるのか、アリスはいらついた様子ながらも黙って歩き続けた。
 「さっきの石の呪文にせよ、この獣の徴にせよ、危険は示している。その危険に近づかないだけでは、わからないこともある」ふたりの背後でパラニアが言った。「それでも、油断は禁物だ。見えているのが、ものごとの表面だけかもしれんからな」
 不意に、アークビショップが立ち止まった。カイトらも追いつくと、女司祭は無言で石床の上にたたずみ、落ちているものを見つめていた。腕輪、飾り紐や額冠などの装身具に見える。それが、無造作に石床の上に散らばっていた。
 「彼の──エクスソーサラーの装備です。元の世界から装備していた」アークビショップは言ってから、口を覆い、「まさか──」
 カイトも見下ろした。さきの獣の骨のように、ここにいる自然の獣に襲われ、その遺品だろうか。
 アリスは辺りを見回したが、獣がまだ傍に潜んでいる警戒か何かなのか、遠巻きにし、近寄らなかった。
 「おそらく、そうではないな」が、パラニアが長身を傾け、大股な歩幅でそこに踏み込んだ。
 「獣に襲われたなどなら、今までの食われた動物の跡同様、その形跡があるはずだ。だが、あたりに血の跡などもない」パラニアは周りを杖で指してから、難儀そうに屈みこむと、腕輪のうちの一つを拾い上げ、あまり検分もせずに、カイトに手渡した。「食いちぎられるなり、そういう扱いにあって、破損したようにも見えん。そういうのに耐えられる素材にも見えんしな」
 カイトはエクスソーサラーの身に着けていたという腕輪を眺めた。それらは、遠くから見ると金属に見えていたが、近くで見ると、木か革のような素材を塗っただけの軽い質感のものに見える。確かにパラニアの言うように、元の世界はいざ知らず、ここの”鉄獄”の世界で、荒い扱いに耐えられる代物ではない。
 この世界に来たばかりの頃──カイトは本物の金属の装備を、物品や重さや肌へのすれのため、身に着ける気にならなかったのを思い出した。元の世界でも、苛立たせる金属などよりも、装備しやすいそれらの質感の軽い品の方が高級品なのだと頭から信じこんでいたが、今はカイトにはそれらは酷く薄っぺらく、安っぽいものに見えた。
 しかし、アークビショップはほっとしてから、連れの持ち物を大事そうに拾い集めるのを見て、口には出さず、その腕輪もアークビショップに渡した。
 「どういうことか、わからないわね」アリスが言った。「装備を外して捨てていったか、むしろ──何かの弾みで外れたってことなの」
 「捨てたか外れた理由は何なんだろう」カイトはそれらの品から、皆に目を戻して言った。「逃げる途中だとかか……」
 「いえ、でも、禁呪使いのエクスソーサラーの彼が、装備を投げ捨ててまで逃げるような強敵なんて存在するわけが──」アークビショップは怪訝そうに言った。
 そのとき、通路の奥深くから、かなり遠く、しかし、轟き渡るような咆哮が聞こえた。魔狼のものに似ているように聞こえたが、位置と響き方のせいか、かなり低く、そしてぞっとするような深みから伝わってくるように聞こえた。
 「襲われているのかも!」
 アークビショップとマリアが、その方向に駆けだした。あとの3人もそれに続くしかなかった。


 通路は突然開け、広大な石の広間に続いていた。天井はアークビショップの光の精霊の呪文の光が届かないほど高く広い。朽ちた石柱が立ち並び、なかば自然の洞窟に近くなっているようにも見えたが、床はほぼ全面が石が敷かれている。その床の、広間の中央付近が円形に低く、段差になっていた。いや、獣が乗り越えられない程度の、堀のような窪みの円陣になっている。
 さきに聞こえたのと同じと思われる咆哮が、広間じゅうに響き渡り、全員がその円陣の中央近くを凝視した。
 そこに黒い山のようにうずくまり、しかし、裡に秘めた強靭な力の行き場がないかのように、身じろぎしている獣の姿があった。外で遭遇した魔狼によく似ているが、肩までだけでも人間より遥かに大きく、重さで言えば数倍はあるように見える。一見すると、前のものと同じ種の獣であるようにすら見えない。毛並みは先の魔狼と同様に、硬質に荒々しく逆立っていたが、漆黒だった。
 「ここは、この岩屋は……こいつの住処だったのか?」カイトが言った。
 「単にそれだけの話ではなさそうよ」アリスが石柱じゅうに刻まれたルーン文字に目を走らせ──凝視しないよう、すぐに目を逸らしながら言った。
 一行は無意識に、獣からあとじさった。が、突如、アークビショップが円陣の中を指さして叫んだ。
 「彼の装備が!」女司祭が指したのは、獣の足元だった。魔狼からはさほど離れていないあたりに、さらに指輪や護符などの装飾品と、いかにも装飾の多い杖が一本転がっていた。
 「元の世界から持ってきた、残りの装備です」アークビショップはそれらを凝視して言った。「そんな、……杖までなんて」
 「……あんたんとこの世界でも、魔法使は杖を大事にするの?」アリスが怪訝げに、ささやくようにカイトに言った。
 「ああ、杖は武器の物理能力修正と同じように、魔法能力への修正が一番大きいから、魔術士は一番費用をかけてることが多い」カイトは、何かずれた答えだと自分でも思いながら答えた。
 「つまり、簡単に自分から投げ捨てたとは考えられない」アリスは、魔狼の足元を凝視して言った。さらに、杖はともかくも、それらの指輪や護符などの装飾品の類は、簡単に手放したくらいで落ちるとは思えなかった。
 「けど、かといって、この獣に襲われたような痕跡もやっぱり他にはないわね……」アリスが、広間の床に目を配った。
 カイトは辺りの光景、広間と石柱と魔狼を見回したが、自分の知識などでは何がわかるでもない。パラニアに何か聞こうとして見回したカイトは、そこでマリアに気付いた。
 マリアが、なぜか石柱のひとつによりかかり、円陣の中の方に身を乗り出していた。
 魔狼の漆黒の毛皮は、広大すぎる広間の闇の中に半ば溶け込んでいるように見え、その獣の黄と赤の目は、闇の中からぎらついて、こちらを凝視しているように見える。カイトは、マリアが思わずその目に見入っているのかと、不意に心配になった。
 が、それは気のせいではなく、獣の目と、マリアのはしばみ色の目は、明らかにまるで人間同士が見つめ合うように凝視を続けていた。獣の低いうなり声だけが、しばらく広間に反響し続けた。
 カイトがそれをアリスに警告しようとしたとき、突如、マリアががくりと膝を折った。
 駆け寄ったアリスを、マリアが見上げた。
 「おねえちゃん。このひと……人間だよ」マリアがかすれた声で言った。「心が、目の奥が獣じゃない──」
 アリスはぎょっとして魔狼を振り返った。
 「どういうことだよ!?」カイトが口走った。獣の方の目は、マリアを凝視したままだった。
 「本当なのか!?」カイトはアリスを見下ろして言った。
 「もしかするとね……」アリスが言った。「前に、少なくとも憑依や変形(へんぎょう)で、マリアがそういうのに気付いたことはあるわ。マリアの霊感なり、アエニルに教わった自然がらみの術なりで」
 パラニアが、ゆっくりと並び立っている石柱の側を歩き、見上げた。石柱の文字、つづいて円陣のまわりを囲むように刻まれたルーン文字を、さきほどと同様に杖の先で、やや離して指し示した。
 「手がかりは、この広間にかかっている施術にありそうだ」パラニアが言った。「入り口近くにあったよりも、遥かに強い変容と束縛の呪が刻まれている。ここは、妖術の儀式場であったらしいな。ここに迷い込んだ人間が、『妖術の丘』の変容のルーンで、何らかの原因でこのルーンの影響を受けて、人から魔狼に変容した、ということはあり得る」
 アリスとアークビショップが、驚愕して魔狼を見た。
 「そんな、まさか、ありえないだろ!」カイトがわめいた。「人間よりずっと大きいじゃないか! 質量保存の法則から考えて人間がどう変化したってこの大きさと重さに巨大化するなんてあるわけないだろ! だいたい合成獣(キメラ)化儀式も何も準備しないで柱に書いてある呪文のひとつで人間からこんなモンスター種別も違うぜんぜん別のモンスターに変化させるなんて人間の魔力容量(キャパシティ)でできるわけがな……」
 「だまんなさい! よりにもよって今、あんたのうわごとなんかに構ってる場合じゃないのよ!」アリスがカイトを怒鳴りつけた。
 ……アークビショップは呆然として、獣の姿を凝視し、しばしば、円陣の段差の中に散らばった装備品に目を移すだけで、立ち尽くしている。
 「ここに来たか、連れてこられた誰か、というだけで、その男だと決まったわけではないがな」パラニアが言った。
 「いえ……」アークビショップが、落ちている装備品を凝視して言った。「彼が、杖まで捨てて、ここを去るとは考えられません……」
 「確かに『妖術の丘』の術であれば、変容と共に、人の容に合わなくなった、持っていられなくなった装備が周囲に落ちた、と考えるのが自然だ。……が、確実とはいえん」パラニアは低く言った。「なぜこうなったのか、推測できないでもないが、……細かいところは、この本人にでも聞くしかないが、それはもうかなわん」
 獣の低い声が広間に響き続けた。黒い毛並の姿とともに、その咆哮は広間に響きつつも、闇に吸い込まれているようだった。
 「聞くことは……きっと、できると思う」が、マリアが、不意に言った。「このひと……話したがってる」





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