すみやかな起動







 粗雑に振り回されたその軌跡の終点がかすったというただそれだけで、彩の
体は吹っ飛び、ひびわれた石畳に激突した。野伏の黒い裾の長い服に包まれた
軽い少女の体は、純粋な腕力に対してなすすべもなく投げ出された。叩き付け
られる前にすでに剣は手からもぎとられていたが、離れて遠くに飛んでゆかな
かったのは、革紐で革篭手に結わえられているためにすぎなかった。
 全身が活力を欲し、すみずみから体温を呼び起そうとして瘧のように震えて
いる。破綻した肉体の機能はその回復のみのために虚しく軋むばかりで意に沿
わせるなど論外だ。だが彩は、喉から整わない笛のような喘ぎと断続的に血液
の飛沫を落としながら、両肘をつき、膝を立てて、がくがくと痙攣する体を起
こした。そうしなければ、──もっと酷い事態になるのだから。
 ほとんど這うように岩の通路の角に入り込み、ふたたび膝をついた。時間は
わずかしか残っていない。震える手でなんとか巫術の小譜の手帖を取り出し、
彩自身の鉛筆の筆跡で暦(こよみ)を書付けた頁に目を走らせてから閉じ、何度
も咳き込んでから、息を無理に整えて奏じた。「たかまのはらにかむつまりま
すすめむつかむろきかむろみのみこともちてあまつのりとのふとのりとのこと
をのれかくのらば……」
 こころもち清浄の気が身体にあふれるのがわかったが、もうそこで中断せざ
るを得なかった。押し寄せる様々な生き物が通路を席巻していた。バタバタと
巨大トンボの一体が通路から逃れ、遠くからでも遥かに見上げられる丘ジャイ
アントが邪魔な透明ムカデを蹴飛ばし、光の屈折が通路の壁にひしゃげるのが
見えた。彩は剣を握ると、目の前のブラック・オーガに踏み込みざまに斬り上
げた。地霊巫師(アミニスト、野伏)としては背に負った弓の方が有効だが、矢
はすでに尽きている。言うまでもなくそれ以外の物資もとうに尽きていた。だ
が、……それでも剣を揮い続ければ、運がよければ敵の剣の方は外し続け、切
り抜けることができるかもしれない……
 が、彩には、それは決してありえないということが既にわかっていた。『そ
れは今までに何度も経験してきたことだったのだ。これまでこんな過ちをして
助かったことなどなく、』今回も確実にそうだった。──これは死ぬ。確実に
死ぬ。しかし、仮にそれがわかっていても、生命へのあがき、執着が止まるは
ずもなかった。とうに剣が思い通りになど動かないにも関わらず、彩は闇雲に
切り立てた。
 ブラック・オーガの鎧(よろ)われていない首根と星合を裂くと、踏み込んで
きた次のオーガの剣が同時に斬り合い交錯した。彩の剣はオーガの小手うちを
切り裂き、オーガの剣は彩の水月(みぞおち)に食い込んだ。断ち切られた筋が
収縮し、外気に触れた臓腑が硬直し彩の体内で強烈な悲鳴を上げた。全身が抵
抗に痙攣する衝撃は彩の心身をあやうく成立させていた均衡を遂にばらばらに
砕き、その呻きが身体の軋みなのか自分の上げた悲鳴なのかどちらなのかもわ
からないまま、彩の意識は薄れ、身体は膝からゆっくりと落ちた。その上に、
千数百ポンドの丘ジャイアントの鉄靴が落ちて来た。
 もと彩だったものの横腹が張り裂けて内容物が地面に撒き散らされ、床の雑
多な血や肉や生物やその残骸とまざりあった。


 次に彩が目をさましたのは、辺境の地の宿屋の酒場のテーブルのひとつに向
かっていたときだった。
 目をさます、我に返る、何といってよいかはわからない。よく考えると、別
にそれまでの間、意識や記憶がなくなっているわけではないのだろうと思う。
しかし、「死んだ」後に、おそらくどこかでふたたび生まれるか何かして、こ
の地にたどりつき──ひいては、この辺境の地で盗賊や洞窟の魔狼の退治を請
負い報酬を手にし、というあたりまで、彩にとっては完全に文字通りに「無意
識」の行動と化していた。少なくともそのあたりまでは、十数回、数十回、あ
るいはそれ以上を限りなく繰り返してきたことだった。それらを機械的に行っ
てふと我に返り、ようやく自分が前の戦いで一度死んで新たな生を生きている
ことを知る、それが彩の感覚で、目をさますと言うことだった。
 彩はテーブルに向かったまま、呻くような喘ぐような声を立て、身じろぎし
た。無意識で盗賊や魔狼と戦っていたあたりの記憶を辿ってゆく。何度死んで
生まれても、この世界の他の存在(クリーチャー)の、名や能力に関する記憶は
ずっと残っている。しかし、それに相対したときの戦いの「勘」はまったく失
われており、体は自分のものとは思えないほどうまく動かなくなっている。巫
術(自然)も呪禁(暗黒)も忘れてはいないが、この地での地脈や天数の動きやそ
こからの霊力の引き出し方はまったくわからない──あるいは、これらは以前
とは本当に変化しているのかもしれないのだが。
 外見も、基本的な肉体や精神の資質もほぼ同じで、その意味ではたぶん、
「死ぬ」前と同じ肉体なのだと思う。しかしそれを動かす勘や霊力が抜けてい
るということは、本当は、たとえ見かけは同じでも死ぬたびに「新しい命」、
別の命と身体なのかもしれないとも思うのだが──その追求はもう何十度目か
前に諦めていた。確かなのは、死ぬたびにこの地で得たすべてのもの、集めた
資産は勿論として、実地で身体や精神に得た力も失って、新しくやり直させら
れる、ということ──
 彩は剣と弓を負うとテーブルから立ち上がった。盗賊と魔狼の退治の報酬を
得ればもうこの辺境の地に用はない。"冥王"と、次元を渡る"王族"の争う、あ
の地下城砦を目指すほかにない。そしてその先はわからない。また死ぬのか。
どうやって死ぬのか。
 別のテーブルのそばを横切った時、揚げじゃがの皿だけを前にした少年が、
独り言とは思えない、誰かに尋ねるような声を発するのが聞こえた。「”サー
ペント”って、なんなの……どうして、それを倒さないといけないの?」
 彩は身体にふぞろいの大きな剣や背負い袋を横に置いた、かぼそい手足の目
立つ少年を、横目で見たまま通り過ぎた。この世界の要素の中では一握りとは
いえ、大蛇を目指してその地下城砦に向かうという者は多くいるが、誰ひとり
として大蛇についてはっきりしたことを知っている者はおらず、同じ動機・目
的を持つものもいない。
 だが、中には自分と同じ者がいるのだろうか──自分と同じように、何度も
死んで、ふたたび目覚めてまで戦い続けている者が──大蛇を倒すまでは延々
と生き返るらしい、そしてその宿業を終わらせるため、自分が”死ぬ”という
望みを果たすただそれだけのために、大蛇を倒さなくてはならないという者が。
 出ぎわに店の中を振り返ると、カウンターの傍らの、むぎわらを束ねたよう
な髪をした小男が、こちらを見て笑ったようだった。男に心当たりはなく、笑
いの意味はいくつも考えられたが、彩はそれを考えようとはしなかった。
 彩は宿屋を出ると、巫術の手帖から<食料生成>の術に印をつけた部分をめ
くって見てから、辺境の地から東に開いた門に向けて歩き出した。




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